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始まりの物語 7

 本日の目標……リヒトくんと、自分の想いに決着をつける。
 それを無事に達成させて満足感に浸る私は、青空が徐々にオレンジ色に染まっていくのを眺めながら、ネトゲ友達から彼氏に昇格したリヒトくん……立花先生と一緒に駅までの道のりを歩いていた。
 くすぐったくて恥ずかしい……そんな気持ちのせいで、私と彼の間から会話が失われている。
 きっと出会った頃なら無言が気まずく感じていたはずなのに、不思議と今は心地よく感じてしまう。余裕があるとないとの差は大きいとしみじみ考えながら、無意識に緩む顔を引き締めることに集中する羽目となった。

「シオンさ」
 無言の中、最初ヘタレ気味だった彼から声をかけられて、私は不思議な気持ちを抱きながら視線を移す。穏やかな彼の顔が視界いっぱいになって、あまりの愛しさに直視するのもこそばゆい。
「オレのことは本名で呼んでくれないか?」
 リヒトくん……立花先生が提供した話題は、先生の呼び方についてらしい。
 確かにどう呼べばいいのか混乱していた私にとっては話したいことの一つだったので、向こうから話してくれたことはありがたいことだった。
「じゃあ、立花先生?」
 リヒトくんじゃないということは、立花先生になる。
 安直に考えた結果がそれで、あまり深く考えずに思ったことを言葉にすると、少々不満げな表情を浮かべるのが分かった。
「あれ……ダメ、かな?」
 ネトゲの友達だったとはいえ、相手が教師となれば敬語を使わないのも後ろめたく感じてしまう。そんな私が先生の名前を呼ぶことは、何となく躊躇いがあった。
 わざととぼけるような素振りを見せると、更に彼の表情が歪んでいくのが分かる。
「……理斗でいい」
 予想通りの返答を頂き、今度は私の顔が歪んでいく番だった。歪むというのは違う表現かもしれないが、明らかに今の私は困った顔をしていると思う。
「うんー……やっぱ仮にも自分の学校の先生だし、うっかり学校で名前を呼んでしまった場合のリスクを考えると……」
「お前は学校とプライベートの切替が上手いから大丈夫だろ」
 適当を並べて正論っぽく発言をしてみたら、あっさりとそんな返答をされて大袈裟なため息を零す。
「うわぁ……その決め付け具合。それじゃあまるで普段は猫かぶりがすごい人みたいじゃない」
 彼の言う通り、外では猫かぶりであることは事実なので、別に呼び方のコントロールくらい楽勝だ。でも、それを彼が把握しているはずがないと勝手に思い込んでいたせいで、彼の発言に少々の不満を抱いてしまう。
「違うのか? 今日接してみて、なかなかポーカーフェイスが上手いって思ったけど。素と全然雰囲気が違うんだよな」
 何の疑いもなく自信を持った発言は、私にとって驚くべきものだった。
 確かに今日はたくさんボロを出したので反論はしないものの……今日初めて深く接した相手にここまで気付かれるとは思っていなかったので、恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちになる。
「というか、オレが名前で呼んで欲しいだけなんだけどな」
 苦笑を浮かべる彼には危機感が感じられなくて、とっても複雑だ。あんなにも自分の地位を危険に晒したくないような感じだったのに、こういうことは話が別なんだろうか?
 どんどん追い詰められていく自分の立場に焦りながらも、じゃあどうやって呼べば落ち着くのかと必死で考える。

「……じゃあ、理斗、さん」
 だけど結局、私はここまでだった。
 ずっとリヒトくんと呼んでいたから『くん』付けでもよかったかもしれない。でも、いざ大人の男性を目にしてその呼び方はやっぱり落ち着かなくて、一番しっくりきたのがその呼び方だった。
 多分不満に思われるだろう。
 その予想は当たっていて、やっぱり彼の表情は不満そうな感じのようだった。
「わ、私だって……これが精一杯だもん」
 何も考えずに飛び出した言葉は、拗ねた子どものように拙い。
 ついさっき、頭の中で思ったはずだった。私は呼び方のコントロールくらい楽勝だって、確かに考えたはず。ほんの少し前に考えたことをすぐに忘れるほど頭はボケていないはず。
 なのに私は、大変矛盾したことを口にしていた。全部全部、上手くやれる自信があった……そのはずだったのに、実際は何一つ上手くいかない。
 酷く熱くなっていく頬に恥ずかしさを覚え、今自分がどんな顔をしているのかと考えようとすると逃げたくなる。……こんな風に取り乱してしまう自分がいるなんて、私はちっとも知らなかった。
 恐る恐るちらりと理斗さんの方へと視線を飛ばす。
 恥ずかしくて凝視はできなかったけれど、私の見間違いじゃなければ、とても驚いた顔をしていたように見えた。無言のまま歩くことさえもやめた彼に、私はどんな反応をすればいいのか分からない。
「……何、ですか」
 お手上げ状態の私は彼より少し前まで歩いた後、立ち止まって振り返った。
 顔は見るのが恥ずかしくて、俯きがちになってしまう私の小さく小さく呟いた声が届いたかどうか、それさえも分からない。ついもじもじと落ち着かない気持ちで挙動不審になってしまう私に、彼は一体どんな顔を向けているんだろう。
 ネガティブな気持ちが徐々に生まれてきて、次第に泣きたくなっているのが分かった。今分かることは、それくらいしかなかった。

「………………ったく……敵わないな、お前には」

 だけどすぐに返答はやってきた。
 それからゆっくりと私の方へと近づいていく。
「行くぞ」
 意味深な言葉だけを残して、明らかに先ほどの話題から逃げようとしているのが分かった。無理やり私の手を掴んで、彼の今の表情を伺うこともできないまま早足で歩き出す。
「あ、え、どうしたの、ちょっ」
「お前が悪いから。全部お前が悪いから」
 慌てた私が話しかけてみると、全てを口にする前に遮られてしまった。私以上に早口で慌てている様子が更に私の焦らせるようで、どんどん頭が混乱していく。
 彼の手は大きくてとても熱くて、私の心臓はひたすらに加速するばかりだった。
 これじゃあどっちが悪いのか分からない。
「し、シオンのな……」
 やや駆け足になる私に、理斗さんは落ち着きのない様子で話し始める。
 混乱している私でも分かる話ならいいんだけど……。そんなことをぐるぐる考えながら、意識を彼の声へと集中させることにする。

?
「シオンの素が……照れてるところが……その、可愛いから……調子が狂って頭がおかしくなるんだよ……」
「えっ」
「いや、何でもない。もう理斗さんでいい。シオンの好きな呼び方でいい」
「あの、理斗さん」
「もう何も言うな! お前のせいにしたオレが悪かったから!」
 理斗さんが言葉を紡ぐ度に、私は頭をぐるぐるとさせる。焦る声は確実に私の中へと流れ込んで、何度も何度も響いて染み込んで行く。混乱は更に混乱を呼び、私の世界がぐちゃぐちゃになっていくような気がしていた。
 全てを完璧で塗り固めていた世界。自分を隠し、完璧を演じれば演じるほど塗り固めた世界は強固になっていく。それを作るのには相当な時間を要したはずだった。
 だけど、どんなに苦労したものでも少し崩れたらあっという間だ。
 私のつまらないはずの世界は……あっという間に、壊れてしまった。


 恋愛って……好きって気持ちは……何て破壊力なんだろう。
 理斗さん……立花先生も、学校ではこんな様子を絶対に見せないほどの無愛想で冷たい人間で、何でも完璧にこなす人間のはずなのに……今じゃそんな面影さえも見えない。
 いとも簡単に完璧を崩すそれに、私は驚きを通り越して恐怖を覚える。

「理斗さん」
 どんどん気持ちが冷静になってきて、私は力強く理斗さんの手を引いて立ち止まった。
 驚いた彼はようやく振り返ってくれて、そこでどんな顔をしているのかを知る。
 ひたすら焦って顔を真っ赤にした彼を見て、私だけじゃないんだと落ち着いていった。
「私、ずっと完璧を演じてきたつもりだった。学校でも家でもそれなりに上手くやって来て、私ってすごいってずっと思ってた。だから理斗さんが呼んで欲しい呼び方も分かってるつもりだったし、私はその呼び方で呼べるって思ってた。理斗さんが言う通り、私は呼び方のコントロールができるだろうって……」
 そこで一息ついて、握られた手を力強く握り締めた。そうすると彼は一瞬だけ怯んだように力を緩めたけれど、すぐにまた力が篭っていくのが分かる。
 続けろという合図と勝手に解釈して、私は続きを語り始めた。恥ずかしい自分語りはできるだけ手短に済ませたい。
 こんなにも自分の本音を語るのは反応が怖いけれど、変に遠まわしで話しても余計にこじれるだけなのは目に見えていた。
 私は観念して素直に気持ちを伝えることにする。それが一番の近道だった。
「でもいざ呼ぼうって思ったら……自分が思っていたよりも難しいことに気付いて……。恥ずかしくて恥ずかしくて、名前を呼ぶってだけなのにこんなに恥ずかしいなんて思いもしなくて……それで、つい……!」
 今度はやっと、目を見て話すことが出来た。取り繕ったりする暇もなく、何も考えずに言葉を紡ぐ。自分が紡いだ言葉を思い返すと必死さが浮きだっていて恥ずかしい。だけど、どんな想いを抱いたとしても全部遅い。
 一瞬だけ包まれた無言の空間が永遠に感じて息苦しく思っていたけれど、その空間はすぐに消え去った。
 全ては、ふわっと淡い笑顔を浮かべてそっと私の頭を撫でる彼のおかげ。
「全部ちゃんと伝わってるから安心しろ」
 不安が顔に出ていたのか、理斗さんはやけに優しかった。誰かに頭を撫でられるのが久しぶりすぎて、それがとてつもない安心に繋がることを初めて知って、心がぽかぽかと温かくなる。
「帰るか」
 理斗さんが手を差し出してくれて、照れくさいと思いつつもそっと手を取る。
 少しずつオレンジ色に染まり始めた空はすっかりオレンジ色に変わっていて、青はオレンジに少しずつ溶けていた。終わりが来てしまったことは寂しい。この手を繋ぐことができる時間ももう少しだ。
 それでも案外平気だってことに気付く。
 特別になった今日のおかげで、私は理斗さんと過ごす未来を手に入れたのだから……また一緒に、こうして過ごせることもあるだろう。


「これからが大変だな。学校ではシオンだからって特別扱いはしないぞ?」
 駅へと向かう途中で、理斗さんがそんなことを口にした。
 おどけて話す理斗さんの言葉は、私の覚悟を尋ねているように思える。
「大丈夫。元々そこまで接点もないし、学校以外で繋がっているだけで嬉しいから」
 笑みを零しながら、自信を持ってそう言う私は……多分これから気が変わってしまうだろうけれど、それは口にしない。
 人は欲しいものを手に入れてしまえば、更に次の欲求が生まれる。今はこれで満足かもしれないけれど、いつかもっと欲が生まれてワガママになってしまうだろう。
 それでも……理斗さんの隣にいるために、私は頑張りたいと願う。



 猫かぶりの二人。
 ネットゲームから飛び出してリアルで繋がりだした二人。
 恋をまともに知らない二人……。
 だけど、これからいろんなことを知っていくんだろう。
 私と彼の狭すぎた世界は、どんどん広がっていく。
 出会って三年経ったとある夏の日、大きく変化していった世界。
 そしてこれから、交わった道を共に歩いていく。


 そう――私たちの物語はようやく動き出したのだった。

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Copyright (c) 2013 Ayane Haduki All rights reserved.  (2013.01.20 UP / 2018.05.13 加筆修正版UP)