放課後の駆け引きは世知辛い

「なぁ、アツシ。腹減った」
「えぇ? さっき温泉まんじゅう食べて満腹って言ってたじゃん。どうしたの?」
「え? そうだっけ? あ……あぁ、うん。確かに満腹だな」
「変な煙ちゃん。その年でそんなことも忘れるってまずいよ?」
「え? マジ? 若年性アルツハイマー的な? やだよ俺」

 そんなくだらない会話を交わし、一人でひっそりとボケながら、由布院煙はまんまと自分のペースにはまってくれた鬼怒川熱史をほくそ笑む。
 普段なら、何か考えながら話すことなんてあまりしないのが由布院煙という男だ。
 だらだらとどうでもいいことを話しては、戸惑いながらもそれらしいことを返してくれる熱史とどうでもいい会話を繰り返していた。
 なのに今の煙は、頭の片隅で己の内に秘めた計画について考えながら話している。おかげで腹が減ったと言い、熱史に怪訝な視線を向けられるというやり取りを三回ほど繰り返していた。
 そろそろ先に進まなければ、熱史も呆れて離れてしまうことだろう。
 わざわざ部員である硫黄や立が来ない日、有基とウォンバットを追いかけっこという名目で部室から追い出して二人きりになったというのに、そんな絶好のチャンスを無駄にするわけにはいかない。

 机に突っ伏していた煙はゆっくりと身体を起こし、重たい腰を上げる。
 幸いなのか、熱史は煙との会話を片手間で返していたらしく、煙が熱史に視線を向けた時にはすっかり手にしている本に夢中だった。
 そっと熱史に近寄り、無防備な背後に回り込む。

「んじゃー、もうずっと俺の世話してくれよ……熱史」

 二人きりの部室であることをいいことに、遠慮なく背後から熱史の背中を抱きしめた。
 自分よりも華奢に感じる背中に不覚にもドキッとしながら、おそるおそる熱史の反応を伺う。
「ち、ちょ! 煙ちゃん!?」
 ワンテンポ遅れて動揺し始めた熱史に、煙は思わず笑みを浮かべる。
「んー?」
「んー? じゃないよ!」
「うーん」
「うーんでもないの! 急にどうしたのさ!」
 落ち着きのない様子で煙から逃れようとする熱史に構うことなく、抱きしめる力を少しずつ強めていく。とぼけた振りをして、まだ暑さが残る季節の中、煙はべったりと甘えるように熱史に触れていた。
「煙ちゃん!」
「いいじゃん。嫌なの?」
「嫌とかそういうのじゃ」
「じゃあどういうの?」
 いつもの自分じゃない。おそらくそれは、熱史も感じていることだろう。
 煙は心の中で溜息をつき、だけど煙が考えていた計画通りに事が運んでいることに喜んでいた。
 ちらりと見えた熱史の顔はすっかり赤く染まっていて、もっとその顔を見たいという欲求が煙を襲う。
 ずっとこうしてみたかった。
 二人きりの部室で、いつもは仲のいい親友のような老夫婦のような、強く結ばれた友情を飛び越えた何かを、特別なことを、煙は熱史としてみたいと思っていたのだ。
「今日の煙ちゃんおかしいよ!」
 熱史は今も動揺したまま、煙の気持ちにも気付かない様子である。
「んー? おかしくねーよ。アツシが好きでやってんだから」
「好きって………………って、えっ!? 何言ってんの!?」
「何って?」
「何って、え、煙ちゃん!?」
 何度もとぼけているが、やっぱり全部分かっている。
 どさくさに紛れて告白したいと思っていた……最大の計画を達成できて、煙は熱史を抱きしめながら達成感に浸った。
「ど、どうしちゃったのさ……病気? 熱でもあるの?」
 そろそろ熱史も素直になっていいのに、なんて煙は心の中で思いながらも、達成できた緩みで好き勝手に話を続ける。
「そうだな……恋の病ってやつ?」
 今なら多少の恥ずかしい台詞だって難なく言えるような気がする。
 ちょっとしたドヤ顔を浮かべながら、さらりとそんなことを言ってのけた……
「うわ……重症だよ……まずいよ煙ちゃん。アルツハイマーで騒いでる場合じゃないよ」
「え……うわって何だよ、うわって」
 のだが、だんだんと雲行きが怪しくなってきた。
 いや、予定ではそろそろなんやかんやでほだされていく熱史の顔を拝む予定だったのだ。
 煙も熱史を解放し、お互いちょっぴり恥ずかしい想いを抱きながら見つめ合ったりするつもりだったのだ。
 実は俺も……なんて熱史が自身の想いを打ち明ける展開を考えたりしたものだ。
 なのに、熱史はかなり引いた様子で煙を見つめていたのだ。


「煙ちゃん、もしかしてまた新手の敵にやられたんじゃ……!」
 現実というものはそう簡単にうまくはいかない。
「俺が助けるよ!」
 煙が呆然としている隙に抱きしめていた腕から逃れた熱史は、迷うことなく手首に身につけているブレスレットにキスをした。
 それは、ある意味で恐ろしい展開だ。

「ラブメイキング!」

 最終的にこの掛け声で煙の顔は一気に青ざめていった。
 みるみるうちに熱史の装いが変り果てようとしている。


「ま、待ったーー!」


 普段はなかなか見せない俊敏な動きで、煙は変身しかけた熱史に飛びついた。
「うわっ!」
 途中で変身がキャンセルされた熱史は勢いよく床に倒れ込み、その上に容赦なく煙も倒れ込む。
「ってて……も、もう、煙ちゃん!」
「早まるなよ! てか、すぐ敵の仕業とか考えるんじゃねーよ!」
「でも! あの煙ちゃんがあんな恥ずかしいことするわけないじゃん!」
「俺だってやる時はやるんだよ!」
 煙が熱史を押し倒した状態であることにも気付かず、二人でわーわーと言い合った。だが、すぐにその言い合いも収まる。
 驚くほどの煙の気迫に、思わず熱史が黙り込んでしまったせいだろう。
「…………くっそ……面倒くせぇ……」
 そのまま驚愕の表情を浮かべる熱史に近づいて、いつもブレスレットにしていることと同じことをしてやろうなんて考えが浮かんだが、面倒になってそのまま熱史の隣に寝転がった。

 もしかしたら、前に熱史と喧嘩した時と同じく敵に洗脳されてこんなことになったのではないだろうか。
 先程までワクワク感で舞い上がっていた煙の気持ちは落ち着き始め、冷静さを取り戻していく。
 告白みたいなことをして、そして、どうしたかったんだろうか。
 その辺のカップルみたいなことをしたかったのだろうか。


「煙ちゃん」
 さっきから動揺ばかりの声色しか聞かせなかった熱史が、隣から名前を呼んだ。
 恥ずかしくて顔も見れない煙は、今もなお目元に右腕を乗せたまま動かない。
「何?」
「やっぱ、敵に何かされたんじゃない?」
「うーん……そうかも」
 張り切っていた自分がバカみたいだ。
 こんな回りくどいことをしたって、熱史がそう簡単に振り向くはずもない。
 自棄になった煙は適当なことを口にして、適当にやり過ごそうと決めた。
 自分で作り上げた状況で、煙が有利だったはずなのに……本当に人生上手くいかないものだ。
 ぼんやりと自分の人生を振り返りながら、もう思い残すことはない、なんて思い始める。


「じゃあ、解放してやらないとね」


 熱史の意味深な言葉に、腕によって視界が遮られていた煙はすぐ反応ができなかった。
 すぐ傍に熱史がいたことにも気付かず、気配に気づいた時にはもう何もかも遅かった。



 腕をしっかり抑えつけられ、そのまま熱い吐息が吹きかかると意識したのも束の間……触れたかったという欲求があっさりと叶えられる。
 さっきはブレスレットにしていて、今もそうするのだろうと思っていたキスは、ブレスレットではなく煙に降り注がれた。


「あ……アツシ?」
 腕を抑えつけていた力が弱まり、ゆっくりと視界を広げていく。
 外から漏れる夕陽の光がまぶしくて、思わず目を細めた。その先で、ふわりと優しく微笑む熱史の表情が見える。
「どう? 楽になった?」
 全てを見透かすような微笑みに、煙は盛大に溜息をついた。
「あの面倒くさがりな煙ちゃんがこんなことするなんて思わなかったよ。可愛かったけど」
 さっき見せた動揺が嘘のような余裕っぷりを見せる熱史はひどく楽しそうだ。
「……お前、全部分かってただろ?」
「何のこと?」
 もうこの計画は丸つぶれで、悪魔のような微笑みに勝てる気がしない。





「俺も、煙ちゃんのこと好きだからね」
 聞きたかった言葉も、この流れで聴くと複雑だ。
 煙はもう一度溜息をつき、もう暫く床に転がったまま脱力するのだった。



「……慣れないことはするもんじゃねぇな」