私に優しくない社員

 それは、あまりにも突然すぎた。
 突拍子もなさ過ぎて、私は自身が持つ言葉全てを失った気分になる。
「ああああああああああのおぅ!」
 カントクという名前さえも一瞬飛んでしまうほどの威力は、私の身体にはあまりにも耐性がなさすぎた。
「ん? どうした?」
「ふぎゃああああ!」
 あまりにも近距離から聞こえるその声と呼吸音に、私の心臓は暴走特急のように加速していく。
 さらに追い打ちをかけるように、カントクは私の顔をまじまじと近距離から見つめてきた。
「ちかっ! 近い近い近い近い!」
 もしもカントクに好意がなかったら、即セクハラで島流しの刑にされてもおかしくない。


 そんな今にも恥ずかしさで失神してしまいそうなこの状況は、一言で表すならば『壁ドン』という言葉がぴったりだろう。
 休憩時間だと休憩室に足を運ぶと、ちょうど居合わせたカントクに「ちょっとこっち来て」と手招きされたのだ。それにまんまとつられてしまった私は、これからは多少の警戒心を持ってカントクと接しなければならないのではないかと悲しいことを考えなければならないほど、ドキドキで死んでしまいそうになる……今の状況に陥る羽目になったのだ。
「な! 何で壁ドンなんですか!!」
 何とか日本語をしゃべることができた私は、精一杯の力で目の前の顔を睨みつける。
 だが、こんな状況に陥っても動揺を見せないカントクは、こちらの気も知らないでさらりと返答するだけだ。
「え? 流行ってるから」
「流行ってたらやっていいってもんじゃないんですよ!」
「CMの恋愛講座でやってたから……」
「CMでやってたからって実践していいってもんじゃないんですよ! てか何なんですかそのCM!?」
 流行れば何でも実践したがる子どものように、何の疑問も持たない表情でカントクはただただ不思議そうにしている。その余裕が腹立たしく、一人で動揺している私はとてもバカらしかった。
 こんなに近くにいたんじゃ、いつか暴走している心臓の音を聞かれてしまう。そうなれば、確実にからかいの対象になること間違いなしだ。今だって顔が火照っているのを自覚するほどに熱いと思っている。
「ていうか! 他の人にやったらダメですからね! 相手が訴えたら確実に負けますよカントク!」
 私はなんとかこの状況から脱出するために抵抗する手段を選んだ。
 カントクだって根は優しい大人の人だ。嫌がっていたり抵抗しているところを無理やり……なんてことは紳士的な成人男性は絶対にしないだろう。こうして抵抗を続けているうちに「悪かったよひおたん……」と解放してくれるはずだ。
「へぇ。それじゃあひおたんにするのはいいんだ?」
 だが、カントクが例外であったことを今更思い出した。
 こうやって、痛いところを突いてはからかってくる。
「分かったよ。ヤキモチ妬きのひおたんにだけ、特別だぜ?」
「ふんぎゃーーー! 無駄にいい声やめてくださいっ! そういうつもりじゃ」
「照れるなって」
 何だこの状況は。どうしてこうなった。
 確か私は、バイトで疲れた体を癒すためにここに来たはずなのに……何故疲労を増やしているのだろうか。
 頭の中は既にパンクして空気が抜けている最中のようで、物事を深く考えることができない。

「も、もう! もっと優しくしてください!」
 ようやくカントクの身体を引き離すように押し、近すぎた距離を広げていく。
 最初からそうしていればよかったのだが、頭が真っ白だったせいで、そんな簡単な発想にさえ辿りつけなかった。
 カントクは不服そうな顔をしていたが、これ以上近づくことはない。
 それはまさに優しさそのものかもしれないのに、その優しさに気づくのは随分先の話になるのを、今の私は知る由もない。
「優しくって……俺はいつも優しいけど?」
 近くのソファに座り込みながら、溜息交じりにカントクが口にした。
 聞き取りづらかったが、その後もぶつぶつと呟いていたのを把握している。
 私は一瞬怯みそうになりつつも、負けじと意見を通すしかない。

「じゃあ今優しくしてください!」
「何をすればいいのか具体的に教えてくれたら頑張るよ」
「えっ」
「今からひおたんの言う優しさを実践するからさ。教えてよ」
「えっと……そんな、急に言われても……」

 ……だが、あっという間に怯んだ。

 不服そうにしていた表情は一瞬にして新たなる獲物を見つけたような、楽しそうな表情へ変わる。
 予想外の展開に陥ると私も弱い。しかも相手がカントクなら、何を言ったって返り討ちに遭うだろうことが目に見えている。
 何と言えばこの状況を切り抜けることができるのか……。私は躊躇いつつも、問われた優しさについて答えるしかなかった。
「うーん……たったとえばっ! 『顔赤いけど熱でもあるの? 仕事早退したら?』とか……」
 もう今すぐにでも帰りたい……。
 仕事の現実逃避よりも、恥ずかしさのあまり今すぐにこの場所を去りたい気持ちが勝る。
 しかし、提案した数秒後から更に恥ずかしさが加速し、私は思わずぎゅっと目を瞑った。

「顔赤いけど熱でもあるの? とりあえず熱計ろっか」

 ……だが、目を瞑ったことをすぐに後悔した。

「ぎゃーーー! なんでおでこ当ててくるんですかっ!」
 こつんと額に何かが当たり、驚きのあまり目を開けば、更に驚きの現実が視界いっぱいに広がっている。
 先程の近距離など可愛いと思えるほどに、いつ唇が触れてもおかしくない距離。ここで暴れてしまえば何かの事故でキスをしてしまうかもしれない……!
「なんでって……熱があるかどうか確かめないことにはなんとも……」
 だけどやっぱりカントクはあっけらかんとしていて、不思議そうな顔をして私の叫びにさらりと返事をした。
 恥ずかしさを通り越し、段々と虚しさが流れ込んでいく。
 それは、一人で意識して照れて恥ずかしがっている自分とは対照的なカントクは、多分自分のことなんてただのバイトだと思っているんだろうな……という後ろ向きの表れだった。

「早退したらって聞いてくださいよっ!」
「これから新刊の特典封入作業が待ってるのに何を言って……」
「うわーーん! やっぱり鬼だあああ!」

 しかも仕事という現実までもが私に襲い掛かり、思わずカントクを突き飛ばして扉まで全速力で向かおうと駆け足になる。
 もうこのまま帰ってしまいたい。
 一人であんなに動揺していたのに、カントクはいつものカントクで。
 きっと自分には大人っぽさがないから、カントクには響かないのかもしれなくて。
 いつまでも私だけ片思いなんじゃないかと思ったら……怖くなってしまったのだ。


「うわっ!」
 なのに、肝心なところでドジが発揮される。
 何もない筈の場所で足がもつれてしまった私には、そのまま床にダイブする展開しか見れない。
「ひおたん!」
 意外だったのは、カントクが必死に名前を呼んでくれたことだった。気付いた時には身体を支えられ、痛みも床にダイブも無事に回避することができた。その代わりに、別の意味の事故が起こってしまう。
「びっくりした……。急に走るなよ、危ないぞ」
 どこまで距離を縮めれば気が済むのか……。カントクに背後から抱きしめられる形となっている現状に、心臓がおかしくならない方がおかしい。
 触れる体温が熱くて、その熱でおかしくなってしまうのも無理はないのだ。
「あ……あ、ありがとう……ございます」
 びっくりしたのはこちらの方だが、そんな風に言い返す元気なんてここにはない。



「ちょっとからかいすぎたか? 悪かったよ」
 抱きしめられた腕の力が緩み、体温が離れていくのを感じる。
 慌てて振り返ってみると、優しげな笑みを浮かべたカントクの顔が見えた。
「どうだ? ちゃんと優しいだろ?」
 発言でいい雰囲気も台無しだ。
 なのに、私のドキドキは収まる気配がない。
「……はい」
 無意識のうちに返事をすると、恥ずかしさのあまり顔を俯けた。
 カントクは意地悪なくせに、時々こうやって優しくしてくるから困るのだ。


「んじゃ、この後も仕事よろしく〜」
「うわああああああ鬼だあああああああ!」



 ただし、時々なので要注意。