この感情の名前を、わたしはずっと恋と疑わなかった。
物心ついた時からずっとそばにいる、お隣さんの斎川湊は、わたしの大好きな幼馴染。優しくてカッコよくて、運動もできる。家族ぐるみで仲がいいことから、高校生になった今でも、互いの家を行き来するほど親しい。思春期の気難しい時期でさえ、周りに気を取られずに仲が良かったのだから相当なものだ。
そんな彼を好きにならない方が難しいくらい、わたし……佐渡花乃は、幼馴染の湊が大好きだった。
容姿端麗と称される湊の見た目はわたしの大好きな見た目だし、体型は一見すらっとしていながらも、程よくついた筋肉がたまらない。わたしより二十センチ高い身長も、苦手な勉強をわたしと一緒に頑張る姿も、涙を流しながら一生懸命玉ねぎを切るところも、風邪をひいた時は必ずお見舞いに来てくれたことも……挙げるときりがないくらい、わたしは幼馴染のことが大好きだった。
「オレも花乃が好きだぞ」と言ってくれるのが嬉しかった。
だけど、年を重ね、様々な経験や知識を吸収し成長していくと、どうしても向き合わねばならぬ壁に辿り着く。
「佐渡さんって、斎川くんと付き合ってるの?」
十数年の人生の中で、何度も言われた台詞。
「湊は幼馴染だけど」
返す言葉も決まっていて、最初は問われる意味もろくに考えていなかった。
しかし、さすがのわたしも少しずつその真意に直面しなければならないことに気が付く。
問いかける彼女たちは、湊が好きな者たちであること。わたしがただの幼馴染であることが分かると、湊の恋人になりたいと立候補するために想いを告げに行くこと。
今のところすべて断っているその告白を、もしかしたら……いつか受け入れてしまう可能性があることを。
この感情の名前を、わたしは恋だと思っていた。
だけど、最近のわたしはその確信が揺らいでいることに気が付き始めている。
わたしの口にする『好き』は、果たしてどんな『好き』なのだろうか。
「湊のこと好きだなぁ」
反応を確かめるべく、幼馴染と登校中にわたしは不意にそう告げた。
幼馴染の湊は不審げな表情を浮かべ、じとっとわたしに視線を向ける。
「なんだ急に」
「ん? なんとなく」
「さては、週末の昼食係を押し付けようとしてるだろ」
「そういうのではない! ……けど、湊の料理を食べたいという気持ちは否定できない」
色気のかけらもない、日常会話が繰り広げられる。
お互いの両親は共働きで、たまにどちらかの家に行き、二人でご飯を食べることがある。普通に外で食べたり、ひとりで自由に食べてもいいのだけど、習慣から二人で何か作って食べることが当たり前になっていた。
湊はどうやら、その話だと思ったらしい。
「そういう素直な花乃のこと好きだよ」
「やったー! じゃあ、週末はよろしく~」
「分かったよ。準備しとく」
話が一区切りすると、わたしは心の中で『しまった』と焦った。
湊から『好き』と言われても、何も考えずに受け取ってしまってしまった……。
つまり、わたしたちの間の『好き』には、愛だの恋だの少女漫画的要素は含まれないのではないだろうか。
隣を歩く幼馴染をちらりと盗み見ても、そのような変わった様子が確認できなかった。
「あんまりボーっと歩くと転ぶぞ」
「ボーっとはしてませんけど」
「そうか。今日は口数が少ない気がしたから、まだ寝てるのかと思った」
「起きてる!!」
一連の会話から分かるように、やはり恋の気配を感じない。学校の先生に質問すれば解決できる問題だったらよかったのに……。
高校一年生がもうすぐ終わる季節になっても、そんな授業は行われなかった。
***
「佐渡花乃さん!」
普通科の湊と、特進科のわたしがそれぞれの教室へ向かうと、唐突にフルネームで呼ばれた。声の主は、最近『恋って何だろう』と考えるようになったきっかけであるクラスメート。
「鈴原さん……」
ただのクラスメートとも、仲の良い友達とも言い難い不思議な関係である彼女の次の台詞は容易に想像できた。
「斎川くんと何か進展はありましたか!?」
鈴原さんは、わたしの人生の中でもっとも変わった人物に位置づけられる。少女漫画に登場するライバルや嫌味なキャラではなく、応援する立場なのだ。
「いや……特には、何も」
「なぜっ!?」
大げさとも言えるリアクションに苦笑しながら鞄を机に置く。
こんな彼女も、以前は湊に恋をし、そして失恋した者の一人だった。
「佐渡さん、斎川くんのことが好きなんでしょう? 両想いじゃないですかっ」
「そ、そうかな……?」
「そうなんですっ!」
ずずいと距離を詰め、鈴原さんは力強く言い放つ。
「とにかく! 斎川くん被害者の会は、あなたのことを心から応援していますので!」
言いたいことを言った後は、堂々とした立ち振る舞いで自身の席へと戻り、美しい姿勢で何かの参考書を読み始めていた。
ここまでのやり取りはすっかり日常と化しているため、最初は好奇の目で見られていたものの、今となっては気にする者の方が少なくなっている。
ちなみに『斎川くん被害者の会』とは、湊に恋をして失恋した者があまりにも多いがために集まっているらしく、これ以上失恋者を増やさないために、わたしと湊を恋人同士にさせようとしている謎すぎる集まりだった。
モデルのようにカッコいい幼馴染のそばにいて嫌がらせなどを受けずに穏やかに日常を送っているのは、ある意味その謎の集まりによるご加護からなのかもしれない。
一目惚れだったり、湊の優しさだったり……何かしらに惹かれた者たちが告白して玉砕し、いつしかお節介なポジションに収まった集団。
本当に、世の中不思議だらけだが、これ以上の不思議はないだろう。
その集団の会長の座についている鈴原さんだけが熱心で、その他のメンバーは面白半分であることをわたしは知っているけれど、気にしても仕方がないことだったので放置していた。
***
特進科は勉強のレベルが高く、学年に一クラスだけ設けられている。
鈴原さんが恋愛のお節介を焼いているのは珍しい部類で、本来は恋愛よりも勉強を大事にしている者が多い(とはいえ、鈴原さんは学年一位の秀才なのだけど)。
勉強が苦手な幼馴染を助けるために頑張っていくうちに、運動神経がないわたしは勉強の方にのめりこむようになった。将来にどれだけ役立てられるのか分からないけれど、少なくとも今は湊の役に立っている。将来の夢も目標も今のところ特に決まってはないけれど、いろいろ身につけておけば、いざ決まった時に自分の役にためになるのかもしれない……。それは建前で、本当は湊に褒められることが嬉しいだけだった。
なんだかんだで、わたしの人生は湊を中心に回っている。
それを望み受け入れる自分は、果たして湊のことをどう思っているのだろうか。
「佐渡さん、こないだの模試どうだった?」
ぼんやりしていると、前の席に座る男子生徒……日野くんが話しかけてきた。
日野くんとわたしは高校生になってから知り合い、何かとテストで順位を競う仲だ。
「一応A判定もらえたよ。でも、もう少し頑張らないとなぁ」
「僕もギリギリAだった。後半の問題がなぁ……」
「英語?」
「そうそう」
しかし、わたしたちの会話からは一度も勉強以外の話題は出たことがない。湊相手とは違い、『日野くんが好き』なんて言ったこともない。一緒に勉強会をするわけでもなく、同じ塾に通ったりもしない。
だからだろうか。そんなわたしたちを理解しているクラスメートたちから、『日野くんと付き合っているのか?』と尋ねられたことがないのは。……それ以前に、鈴原さんが湊の話を大声でするのだから、誤解されようがないのだろう。あとは、わたしと噂になってしまう日野くんに申し訳ないと思う。それが一番の理由かもしれない。
噂をされるなら、どちらかと悩まずとも湊の方が嬉しいと思う。湊との関係を問われる回数が増えるにつれて浮かれる頻度が高くなるのだから、比較しても明らかな違いがある。
ただの同級生かそうでないか。
特別か特別じゃないか。
勉強の話をしながら、頭の片隅で湊のことを考えていた。授業が始まって日野くんとの会話が中断されてもなお、頭の片隅ではまだ湊のことを考えている。
好き。
躊躇いもなく言える言葉を、世間では恋する相手に対して躊躇ってしまうのだという。
じゃあ、わたしが発する好きは、恋じゃないのだろうか。
好きという言葉がゲシュタルト崩壊を起こすほど、何度も何度も幼馴染のことを考える。
恋だと思い続けたそれが揺らいだのは、経験値ゆえのことだった。純粋なわたしに不純物が混ざり、信じられなくなってしまったから。
(ああ、もやもやする……)
苛立ちから、わたしはひとつの決心を固めることにした。
***
あれから一時的に恋について考えないように生きながら、週末を迎えた。
ひとつの決心を胸に、わたしは湊の家のインターホンを押す。
『はい』
「わたしだよー」
『鍵開いてる』
「はーい」
短いやり取りを終え、いつもなら遠慮などせず普通にお邪魔するのだが、今日は少しだけ躊躇った。……そこでようやく、わたしは緊張しているのだと気づく。
これから自分がやらかすことを考えると、呼吸さえままならないような気さえするのだ。
「おーい。いつまで突っ立ってるんだ?」
すると、一向に入ってこないわたしを不審に思ったのか、玄関先まで湊がやってきた。見慣れた私服姿と、不思議そうなものを見るかのような表情。扉を開け、手招く動作が愛らしく、もやもやとは違う何かが込み上げてきた。
意を決して一歩ずつ進んでいき、湊の家の中に入る。
「早く入れよ。できてるぞ、昼飯」
いつもの調子で告げる言葉を、わたしの込み上げる想いが打ち消した。その想いの名前を、わたしはまだ分からずにいる。どれだけ勉強しても知ることができない……ある種の病に侵されているのだと確信した。
そろそろ認めてもいいのではないか?
心の中で問いかけるが、まだそこに辿り着くには時期早々な気がする。
「湊っ」
鈍っていたはずの足が急に速度を上げて、湊に近づいていく。
いつもと違うゼロセンチの距離。
背を向けた隙に、わたしは湊を後ろから抱きしめていた。
たぶん、どれだけ考えても答えが出ない。
だから、行動に移すしかない。
「か、花乃!?」
驚きを込めた湊の声が、触れた部分から直にわたしへと響き渡る。さすがに表情までは見えなかったが、声色だけで明らかに動揺しているのが分かった。
振り返ろうと身体を動かそうとするも、わたしががっちりと力強く抱きしめているために、おどおどする幼馴染は未だに振り返っていない。
玄関先で、中に入ったとはいえ、まだお互いに靴さえも脱いでいなかった。
しかし、このままでは何の解決にもならない。すっかり正常な思考が失われたわたしは、必死に何か言葉を手繰り寄せる。
「ちょっとした……そう、実験なの」
「実験……?」
奇妙な単語を発したことに後悔が押し寄せてくるが、今はただ、無言の時間を打ち消す方が先決だ。それでも解放するタイミングを失ったまま抱きしめる手を緩めない。
そしてさらに隠し事が苦手なわたしは、余計なことを告げた。
「わたし、湊のこと好きでしょ?」
「そう言ってるな。会うとよく言ってる」
「湊も好きでしょ?」
「ああ、花乃のことは好きだよ」
律儀に、湊はわたしのおかしな問いに答える。
……その先が、どう繋がっているかどうかも知らずに。
「じゃあその好きは、どんな好き?」
今日、一番確かめたかったことを、ようやく言葉にして伝える。伝えた瞬間抱きしめていた手が緩み、湊がようやく振り返ることができた。
「……え?」
回りくどい言い方をしたって、欲している答えが得られるとは限らない。直球がばっちり湊にぶつかったらしく、真っ赤な顔と目が合った。長年一緒に過ごしてきて、初めての表情に戸惑う。
戸惑いからか、湊の表情からか、感染源は分からない。つられて顔が熱くなっていく気がして、思わず地面に視線を落とした。
「と……とりあえず、靴脱ぐから」
今日に限ってストラップのついた靴を履いてきてしまい、もたつきながら靴を脱ぐ。
「お邪魔します」
今更のように言うと、ようやく湊の家の奥へ向かった。二階建ての一軒家である湊の家はわたしの家と間取りが同じタイプのため、どこに何の部屋があるか大体知っている。
湊が用意したというお昼ご飯は、リビングのダイニングテーブルに並んでいることをこれまでの経験上、ある程度予測できた。
「待て待て」
しかし、リビングに辿り着く一歩手前で、湊がわたしの腕を掴む。
「何事もなかったようにするなよ」
「いや、あとは昼食でも食べながらゆっくりと……」
「ゆっくり話せる話題か!?」
「でも冷めちゃうし」
「それは……」
テーブルに並んでいるのは、色から察するに湊特製オムライス。とろーり卵がたまらなく、あつあつのうちに食べるのが嗜好の一品だ。
だけど、わたしが酷なことを言っているのは分かっていた。オムライスどころではない……人生をも揺るがす話題であることを自覚している。
「……とりあえず、即行で食べる。その後、詳しく聞くから」
「それでいいよ」
ひとまず意見がまとまり、それぞれが定位置に座った。
「いただきますっ」
「いただきます」
二人で手を合わせて食に感謝を述べながら、無言で口へと運んでいく。
湊に至っては普段の何倍ものスピードで食べ進めており、ぽかんとしているうちにお手製オムライスを平らげていた。……なお、わたしはまだ半分にも達していない。
「オレの話を聞くだけでいいから、ゆっくり食べてて」
「う、うん」
お言葉に甘えて静聴させてもらうことにし、もぐもぐとオムライスを食す作業を再開する。改めて言うまでもなく、絶品の味だった。
「まあ……オレも、そういうのは考えざるを得ない立場に立たされるんだよ……」
口を挟もうとして、すぐにやめる。
おそらく、『そういうの』とは、きっと恋のことなのだろう。
「いろんな子に告白されて、でもオレはその先が思い描けなかったし、何より花乃のことが頭にあったから……たぶん、この先も誰とも付き合わないんだろうと思ったよ」
ものすごいことを言われている。湊の照れながらかけている眼鏡をくいっと上げる様子と、受け止めているわたしの心拍数が異常値をたたき出していることから、そういった結論が生まれた。
もう一度言う。わたしは今、ものすごいことを言われている。
わたしと湊は良くも悪くも素直で、隠し事ができない。
「でも、花乃と付き合いたいってちゃんと考えたことはなくて……。オレは今まで通りの付き合いでも居心地がよかったし、オレが付き合いたいと言って関係が変わるくらいなら、考えなくてもいいかと……いや、でもあれだ。もし花乃に彼氏ができたら、結局は関係が変わるんだよな……?」
不意に問われて小さく頷くと、湊はどこかもどかしそうにがしがしと頭をかきむしる。
「それは一番嫌だな」
視線が交わらないまま、ぽつりと湊が呟いた。
独り言で何かに気が付いた様子を見せる湊の一部始終を見守りながら、わたしはようやくオムライスを完食する。
「そんな理由で付き合いたいというのは、不純だろうか?」
とんでもない言葉を連発する幼馴染に、わたしは反応に困ってしまう。
「わたしも似たような気持ち……だと思うよ」
決定打が掴めない二人は、変な感じで気持ちが繋がったような気がした。
ただ寂しいだけなのかもしれない。
ただ関係が変わってしまうのが怖いのかもしれない。
恋と認めたその先が未知の世界だから、一歩を踏み出すことに躊躇いがあるだけなのだと思う。
「湊が遠いところに行っちゃうのが嫌だし、ずっとこうやってお昼を一緒に食べたりしたい。理由とか意味とかちゃんと理解できてないけど……特別に想ってるし、好きだって想ってるし……」
こうして気持ちを言葉にすることには躊躇いなんてなく、自然と零れ落ちていく。果たして告白として受け止められたのだろうか。
言っている本人でさえ分かっていないのだから、この先の結末がどうであっても受け止めよう。
そう自分に言い聞かせようとしたところで……また知らない感情に直面した。
ここ最近のわたしは、本当に忙しない。
(フラれるのだけは……やだなぁ……)
想像しただけで、涙腺が緩むような気分になった。最低最悪で、そんなバッドエンドだけは迎えたくないと思う。
それこそが、恋というものではないだろうか……その気になると、一気に想いが加速していく。
「やっぱりわたし、湊が好きだなぁ。わたしは恋であってほしいと思うよ」
長く一緒にいすぎて、見えなくなってしまった本当の気持ちが、今この瞬間、ようやく姿を現したような気がする。
決めつけに過ぎないかもしれないし、未だに境目は曖昧かもしれない。
だけど、恋人の特権に気づいてしまったら……遠慮した者が敗者になってしまう。
恥ずかしさがふつふつと湧き上がりながらも、わたしはじっと湊を見つめた。その視線に気づいたらしい湊も、わたしを見つめる。
真っ赤な顔をして、なんと返事をしようか模索しているように見えた。
ここまでお互い素直な気持ちを口にしてきたのだから、たぶん……という予測がつく。
予測が当たってほしいという願いだけじゃなくて、ほんの少しの、小さな確信が言っているのだ。
「よし。オレたち、恋人同士になろう」
きっと湊なら、ハッピーエンドへ向かう返事をくれるんだって。
