引き返せるのは今しかない――。
そう思った時には、もう全てが遅かった。
香澄先輩と放課後を共に過ごしてから一週間が経過した。それからというもの、わたしの世界には変化が訪れている。
「おはよう、立花さん」
登校中に声をかけられるようなことは今までになかったはずだ。
だけど、変化が訪れてからと言うもの、時々声をかけられるようになる。
「香澄先輩……お、おはようございます」
笑顔で声をかけてくれた先輩に内心動揺しながらも、今日は噛まずに挨拶を返すことが出来た。そうするとまた先輩は笑顔を浮かべてくれる。
相変わらず優しい空気を纏い、先輩が傍にいるだけで周りの空気が変わったような錯覚に陥っていた。
先輩の笑顔を見る度に心が弾むのは、『友達』という関係にうきうきしている自分がいるのかもしれない。
「今日も一緒に行ってもいいかな?」
先輩の誘いなんて断るはずもなく、わたしは小さく頷きながら先輩の隣を並んで歩く。
無言で気まずい思いをしないのは、先輩がわたしに積極的に話しかけてくれるからだ。
話す内容は読書のことばかり。それは、出会ったばかりのわたしと通じ合える共通の話題だからだろう。
昨日読んだ本や買った本の話など、割と何でも話したりしていた。
放課後になればそんな話はいくらでもしているのだけど、放課後だけでは足りずにこうして朝も話すことは多い。
「そういえば勧めてもらった推理小説読んだよ。とりあえず一巻目だけ買っておいたんだけど、面白かったから帰りに続きを買いに行こうかなって思ってるんだ」
「よかったです。大分続き出てるので集めるの大変ですけど、この先も結構面白いんですよ」
「へぇ~それは楽しみだなぁ」
いつも一人だったはずの通学路が少しだけ鮮やかに見えて、周りの声もあまり聞こえなくなった。
先輩との会話はやっぱり楽しくて、今だって自分が勧めた本が気に入ってもらえたことの喜びで胸がいっぱいになっている。
今までだったら欠伸でもしながらだらだらと歩いていたはずなのに、朝からこんなに嬉しい気持ちなんて幸せなことだ。
「今度は先輩のおすすめも教えてくださいね」
いつもなら寝ぼけた顔も、今は自然と笑顔になる。
「うん。どんなのにしようかなぁ……」
そして、楽しそうな先輩を見るのが大好きになっていた。
そんな楽しい朝を過ごした、その日の放課後のことだった。
いつもならそろそろ先輩が来てもいいはずの時間なのに、先輩がなかなか図書室に姿を見せない。
別に待ち合わせをしているわけではないのだけど、いつも十六時頃には図書室にいたこともあって、わたしは落ち着かずにそわそわとしていた。
朝話していた時に本屋へ行くと言っていたから、もしかしたら図書室には寄らずに帰ってしまったかもしれない。……そう思えば自然なはずなのに、わたしはどうしても扉の方を気にしてしまう。
大抵図書室の利用者は少ないにせよ、自分以外全くいないことは週に一、二回程度だ。
だけど今日は自分以外に誰もいなくて、唯一いるとすればよく準備室でサボっているサボり魔図書委員くんくらいである。
図書委員くんはさっきまでカウンターに座っていたかと思えば、急に図書室を飛び出してどこかへ行ってしまった。
それを考えると、実質今はわたし一人になる。
「……何で気にしてるんだろ」
ぽつりと声に出てきた言葉は、確実に無意識からこぼれたものだった。
無意識にでも先輩を気にしている自分がおかしくて、何だかよく分からない気持ちになる。
友達だからで片付けるにしたって、そんなに気にするものなのだろうか?
何度も何度も、忘れようとしたって思い出す。わたしなんかでも普通に接してくれる香澄先輩の笑顔。そんな先輩の笑顔を見てあったかい気持ちを抱いていた自分。
「まだかなぁ……」
何度目かの呟きと一緒に溜息を零しながら、ゆっくりと読書の世界へ戻ろうと視線を落とした。
その瞬間だった。
「……!」
がらりと図書室の入口の方から物音が聞こえ、わたしは落とした視線を勢いよく入口へと向ける。
先輩にかける言葉も頭の中で考えていた。
「あ、れ」
だけど、聞き慣れない声と予想外の顔にわたしは驚く。
先輩とは違うクラスのムードメーカーのような風貌。茶髪のくせっ毛に、黒縁眼鏡。ちょっぴりだらしない制服の着こなし……そして、間の抜けた顔。
彼はここでよく見かけるサボり魔図書委員くんで、わたしが期待した人物ではなかった。
「…………なんだ」
ほとんど声にならないような呟きを吐いた直後、わたしは我に返って一連の自分の反応や言動に驚いた。そして恥ずかしさのあまり本で顔を隠す。
どうしてここまで期待していたのか。
図書委員くんが来るまではきっとまだ引き返せたはずだった。
全部気の迷い、気のせい……何とでも言い訳できるはずだった。
でも、もう引き返せない。
わたしが先輩に会いたかった気持ちが本当なんだって、自覚してしまった……。
「すいません」
恥ずかしさに身悶えていたわたしに、彼は声をかけた。
今まで本の貸し出しの手続きくらいでしか声を聞いたことのない、図書委員くんの新鮮な声。
「は、はい……?」
またしても訪れたイレギュラーな事態に動揺しながらも、わたしは何とか返事をするだけで精一杯だった。
もしかしてあまりにも挙動不審だったから、それを無視するのがあまりにもかわいそうで声をかけた……とか?
明らかに『ありえない』ことを考えながら、わたしは更に恥ずかしさで地中に潜りたくなる。
「あの、今日はまだ、香澄先輩……来てないんですか?」
自分のことばかりをぐるぐると考えていたわたしに、図書委員くんは躊躇いがちに話を続けてくれた。
少し恥ずかしそうに、こちらもまた自分でいっぱいいっぱいのような様子で話しかけてくれる図書委員くんに、何だか親近感が沸いて心がホッとするような気持ちになる。
摩訶不思議の感情を胸に抱きながら、彼もまたわたしと同じ気持ちであることに気付いた。同じ人物を待っているという、共通点のせいなのだけど……。
「まだ来てないです、ね。いつもならそろそろ来ると思うんだけど……」
親近感が沸いたことがプラスになったのか、わたしは少しだけ冷静さを取り戻した。
まだまだ危なっかしい返事ではあるものの、さっきの悶えていた時に比べてみれば随分マシになっている……はず。
返事をすると図書委員くんは少し顔を歪ませて、「……いないのか」と小さく呟いた。
気まずそうな表情を浮かべ、次に困った様子で手に持っていた本の表紙をちらちらと見ている。
もしかして、本の整理でもしていて先輩に質問したいことがあったから……だろうか?
先輩なら本に詳しいし同性だし優しいし、聞きやすいところもあると思う。
そうと決まったわけでもないのに、わたしは何だかこの図書委員くんの力になりたいと考え始めていた。
大きなお世話かもしれないけれど、本のことならわたしだって普通よりは詳しい自信はある。
「あの、何か困ってる……?」
勇気を振り絞って、わたしは思い切って声をかけた。
明らかに困ったような顔をしていた図書委員くんは、一瞬だけ驚いた顔になったけれど、すぐに顔を赤くして気まずそうな顔に変える。
「い、いや……別に……」
頑張って素っ気無い態度を装っているのは、彼の言動でよく分かる。でも表面上ではかなり動揺した様子で、ちょっぴり恥ずかしそうなのが丸分かりだった。
「お節介って分かってるし、わたしが考えてることと違うかもしれないけど……その、君が持ってる本のことで困ってるんじゃないかなって……思……って」
たどたどしく話をしていくうちに、役立ちたい気持ちはやがて後悔へと変わっていく。
力になれたら嬉しいのは本当だけど、それは自己満足に過ぎない。
大きなお世話かも……って考えたことは自分を守るためであって、きっと彼のことを考えていたわけじゃないのだろう。
そんな自分に気付いた時、彼に合わせていた視線はやがて下降していった。
後ろめたいから目の前の人間の顔を見ることが出来ない。
「あ、ご、ごめんね……別に大丈夫ならそれで、いいんだけど」
どんなに取り繕ったとしても、わたしが声をかけたことは消せない過去だ。
顔を見ていなくても、図書委員くんが困っているであろうことはなんとなく予測している。
香澄先輩と接することで、自分が変われている気がしていた。
声をかけた理由の一つにそれも含まれている。
変わらないはずのわたしの世界が変化している今なら……何でもできる……そんな気がして。
「オレ、一年の榊(さかき)悠(ゆう)吾(ご)っていいます」
下を向いていたわたしは、あまりにも予想外の言葉に驚いた。
そこから恐る恐る、榊と名乗る図書委員くんにもう一度目を向ける。
さっきまでの動揺が嘘のように、冷静に変わった彼の視線から目が離せなくなったわたしは、金縛りにあったかのように動けなくなっていた。
息を呑む余裕さえ与えられなくて、今のわたしにできることは彼の次の言葉を待つことくらいしかなかった。
「先輩が声をかけてくださった好意を素直に受け止めた上でお願いしたいことがあります」
やけに丁寧な言葉を聞きながら、予想外が続く展開の先なんて読めない。
次はどんな言葉が降りかかってくるのか……それは怖くもあり、逆に楽しみでもあった。
「オレに、本を教えてください」
頭を下げたおかげでわたしはようやく金縛りから解かれた。
だけどその代償に、頭の中を真っ白にされてしまう。
「……え?」
今、何て言った?
次の言葉は声にならず、わたしはただ、彼の言葉に耳を傾けることしかできなかった。