お兄ちゃんの誕生日の翌日、わたしは朝から緊張していた。
特に何かある……わけではない。たとえば人前で何か発表しないといけないとか、何かの結果が出る日だとか。
昨日のように何か特別な日ではない、平凡な一日であることに違いないことは確かだ。
なのに、わたしはやけに早い時間に家を出てしまった。
そして……こうして緊張しているのは、昨日気づいてしまった事柄が原因なんだろう……そう思う。
通学路を歩いていると、同じ学校の生徒をちらほら見かけた。中には同学年、クラスメートもいたように思う。その同学年の人間を見かける度に、わたしの心はざわついて鼓動は速まっていく。
何度か声をかけようとして、その度に躊躇いがわたしの行動を遮った。
今までなら声をかけられたら返す程度だったのに……慣れないことをしようとするから、恐怖が先行して動けなくなってしまうのだ。
「……難しいな」
また一人、去年のクラスメートが通り過ぎるのを見送りながら思う。
今までこうして積極的に誰かと関わろうとしなかった……その代償は、思っていた以上に大きかったようだった。
わたしは思いあがっていたのだ。
―――わたしは変わった。だから何でもできるんだって。
「よっす! おはようさん」
ぽんっと背中を叩かれ、その衝撃に思わず振り返ってみると、クラスメートの和泉くんがにかっと爽やかな笑顔を浮かべながら声をかけてくれた。
「お、おはよう」
呆気に取られたまま力のない挨拶を返すと、これまた面白いものを見るかのように笑いかける。
「なんかおどおどしながら歩いてるのが見えたからさ、暫く観察した後に声をかけるという悪趣味なことをしてしまった」
「えぇー……何それ」
「うん、実に朝から無駄な労力を使ってしまった」
おちゃらけた様子にわたしは思わず噴出してしまう。この人もまた、わたしを優しく見守ってくれていたんだ。
「……ありがと」
小さく小さく、聞こえているかどうかも分からないような呟きを口にする。
こうしてわたしは優しい人間に守られていた。それが大切なことなのは、昨日存分に理解したつもりである。
「ほんっと、みんな優しくて困っちゃうな」
これは声に出すつもりじゃなかった、と思った時には遅かった。
お礼は聞こえていなかったとしても、さすがにリアクションが目に見えているその姿を見て、声が届いていないとは到底思えない。
驚いたようにわたしを見つめる和泉くんは、暫く石のように固まったまま動かなかった。その時間はほんの僅か、数秒の話だったかもしれない。なのにわたしには永遠のような時間に感じて、息が詰まる思いだった。
「俺は、立花が思うほど優しくないぞ」
太陽に影が差したような声がわたしの心をぐさりと抉るようだ。
「でも……いつも優しかったよ。わたしにも、他のクラスメートにだって」
何とか弁解しようと口を開く。咄嗟に出た言葉に偽りなどなくて、勿論事実に変わりはなくて、素直な気持ちだけを言葉にしていった。
なのに、和泉くんの表情は晴れるどころか曇っていくばかりだ。
「それは、自己満足でしかないんだよ」
「え……」
返答すると、立ち止まったままの和泉くんはゆっくりと歩きだす。それに合わせてわたしも隣を歩き始めるけれど、息苦しさと気まずさは残ったままだった。
何か話さなければ……そう思った矢先、隣から長い、長い言葉が聞こえてきた。
「誰にでも無償で優しさを振りまくことなんてできない。俺はただ、誰かに役に立つ自分が好きで、そうすれば周りは敵として見ることだってなくて、敵意がなければみんな平和に生きることができて……。俺は単純に敵意を向けられたくなくて、そのついでに他人も幸せになれるなら一石二鳥かな、なんて。ただそれだけだ」
わたしにとって、その言葉は意外だった。
しかし、当然と言われれば当然の想いかもしれない。勿論それを当然と思わない人間もいるんだろうけど、その反対がいてもおかしくないんだ。
誰にでも優しいと勝手に思い込んでいるのは、理想を押し付けているのは……紛れもない、わたしを含む、彼を知る周りの人間なのかもしれない。
和泉くんの顔をこっそり覗き込むと、その先には寂しそうな瞳があった。かける言葉が見つからずおろおろしていると、わたしの視線に気づいてふわりと笑みを浮かべる。
「なんて顔してんだよ」
「うわっ」
頭を乱暴に撫でられ、さっきまでそこにあったと思っていた沈んだ空気は一瞬にしてかき消された。
「ちょっと喋りすぎたな……昨日もそうだった。なんかもう、全部立花が珍しいことするからだぞ」
「え、えぇー……なんかごめん」
「よろしい」
真面目なような、どこか寂しそうな……そんな彼の姿はもうここにはいない。
完全にいつもの調子に戻ってしまった和泉くんは、太陽みたいに明るくて、眩しい笑顔を振りまいている。
「まあとにかく、立花がそうやって周りのことを理解しようと思う姿勢は、悪くないんじゃないの」
わたしの頭から手を放し、放した手はポケットに吸い込まれるように収まる。
太陽にほんの少し雲がかかったような表情はやけに穏やかで、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ……ドキッとした。
「ありがとう」
思わず零れた言葉に、和泉くんは一瞬だけ驚いた顔を浮かべ、その後すぐに笑顔に戻る。
「別に、俺は何もしてないけどな」
何故だかもう一度頭を撫でられる。
……今度は優しい撫で方で、それが妙に嬉しかった。
ゆったりと歩いているうちに、いつもの時間に校門が見えてきた。
せっかく早い時間に家を出たというのに、どういうことなんだろう……?
しかし有意義と思える時間だと思うので、まあいいかと開き直ることにした。
その時、わたしはどこからか視線を感じる。
「あれ……榊くん?」
はっきりと見え始めた校門付近に、たった一人の生徒が立ち尽くしているのが見えた。
茶髪のくせっ毛に、黒縁眼鏡。ちょっぴりだらしない制服の着こなし……そして、驚いたような顔。
視線がぶつかり合うことを向こうも認識すると、ほんのり赤かった頬が急速に濃くなり、動揺を露わにし始める。見つかってしまったことが気まずいと言いたげな様子だ。
「立花の友達だっけ?」
和泉くんが不思議そうにわたしの視線の先に目を向ける。昨日榊くんのことも話してあるので、ある程度理解はあるらしい。
「うん、そう。榊くん!」
大きく手を振り、駆け寄ろうとした……その瞬間だった。
榊くんは確実にわたしに気づいている。そしてその声も届いていた……はずなのに、逃げるように走り出したのだ。
「えっ……なんで」
行き場を失った手は力なくがくっと下がる。いつもなら明るく駆け寄ってくれるはずだと思っていたせいか、自分でも驚くほどにショックを受けていた。
「あー……俺まずった?」
呆然と立ち尽くす一方で、和泉くんが気まずそうに声をかけてくる。その意味が理解できず、わたしはゆっくりと首を傾げた。
「いや、なんというか……誤解された、とか」
「誤解?」
更に首を傾げ、わけのわからないこの状況に頭が痛くなっていく。
「だから……俺のこと、お前の彼氏みたいな、そういう……」
先ほどよりもはっきりと言われた言葉は、さすがにこのわたしにも理解できた。
「な! なななな何言って!」
急に熱くなっていく顔に、多分今顔が赤くなっているんだろうな……と冷静に思う自分と、ひたすら慌てる自分がいて、最終的に頭は真っ白になる。考えようと頭を働かせる度に鮮やかだった色は真っ白に染まっていき、どんどんツボにはまっていくようだ。動悸が激しくて呼吸が苦しい。
「……まあそれは、立花が後で弁解しといてくれ。ただのクラスメートだって」
「う、う、うん」
不覚にも動揺してしまったことに、自分で驚いた。
別にそこまで驚く必要もないんじゃないか? なのにどうして動揺しているんだろう。
……というか、どうしてわたしは、一瞬でも喜んでしまったのだろう……?
そして今……何でしょんぼりしているんだろう。
あれ……喜ぶ? しょんぼり?
「あ。あとこの流れだから言っとくぞ」
あたふたしているうちに『昨日言いそびれたことだ』と付け足し、和泉くんは静かに話を切り出した。何を言われるか分からないままドキドキと心臓の音だけが聞こえて、雑音が聞こえなくなっていく。
一度だけごくりと生唾を飲んだ。
「俺、お前のことを気にしているって言ってたけど……好きとかそういうのではないから。他に好きな人がいるから。そこんとこは、ちゃんと理解してくれよ」
彼の言葉に、わたしは不覚にもショックを受けた。
あれ、なんでだろう。なんでこんなに気分が落ち込むんだろう。
和泉くんの表情に悪意なんてなくて、きっとその言葉もわたしのためを思っての言葉だろう。
……ちゃんとわかっているはずなのに、わたしの気持ちは晴れない。
「ちょっと優しくされてドキッとして恋に落ちるとかそういう展開になったらかわいそうだから、先に言っとくぜ」
そうしているうちに彼はおちゃらけた様子で言葉を付け足す。その付け足しのおかげで、ショックを受けた理由がわかったような気がした。それは誰にも言えないような……バカみたいな理由。
「そんなの、ありえっこないよ」
「だよなー。知ってた」
わたしたちはまた歩き出し、教室へと向かう。会話はいつもと同じ雰囲気で交わされ、教室に入ったらお互い自分の席へ着いた。教科書類を机にしまいこみ、手持無沙汰になったところで机に突っ伏す。
そして朝のことを思い出して、悶絶しそうになった。
意識なんてしていなかった。
でも、確かに無意識のうちに、彼の優しさにドキッとして、いいなって思ったりして、頭を撫でられたことに嬉しいって思ってしまって、もしかして彼はわたしが好きなんじゃないかって思ってしまった。
そしてあっさりと玉砕したような形になる。
―――朝の数十分の時間に……わたしは和泉くんに恋をして、失恋したのだった。
そんな恥ずかしい出来事は、きっとずっと、誰にも言えない秘密になる。
「…………一生の不覚だ」
しかし、昼休みに和泉くんと会話をしたその時にはもう、わたしのトキメキなど存在すらしていなかった。まるであの朝が、夢だったのではないかと思うくらいに。それが恋だったのかと疑問に思うくらいに。