今の自分には、恋をする理由も、権利も、意味さえもないと、心から思う。
自身には課せられた使命だけがあって、それ以外に何の意味も持たない。
今楽しいと感じるこの日常さえも、いつかは別れを告げなければならない。
それを考えるだけでも憂鬱だというのに、万が一恋に落ちてしまったらどうなってしまうのだろう。
世の中には『恋の病』なんて表現する者がいるが、まさにその通りだと思う。恋に落ちた瞬間、きっと正常な自分は消えてなくなってしまうだろう。
だから病に蝕まれる前に予防線を張るのだ。
警戒レベルを最大まで上げて、誰にも惹かれぬよう、情が湧かないように。
それで何とかなると思い込んでいた自分は相当愚かだが、残念なことに、この時、自身にできることはこれくらいしか思いつかなかった。
***
それは、不幸な出来事であった。
「じゃあ……古泉くん。みくるちゃんをよろしくね」
「すみません……」
「お任せください。きちんと自宅まで送り届けますから」
休日の市内探索を終えた夕暮れ時。
SOS団一同はまさに解散ムードであったが、一点だけ、いつもと違うことがあった。
簡単に説明すると、みくるが階段で転倒し、足を捻挫してしまったのだ。
全く歩けないというほどでもないが、駅から自宅まで徒歩で帰るのは難しいと判断し、紆余曲折を経て古泉が自転車で送り届けることになった。
「では、行きましょうか」
いつも微笑みを絶やさない副団長の古泉一樹が、SOS団のマスコット的存在である朝比奈みくるの身体をしっかりと支えながら、優しく話しかける。
「はい……よろしくお願いします」
罪悪感の塊のようになったみくるは、痛む足を引きずりながら、近くに止めている古泉の自転車までゆっくりと歩を進める。
残りの三人はそんな二人を見えなくなるまで見守るのだった。
***
「では、しっかり掴まっていてください」
「は、はい……」
自転車の荷台に座ったみくるは、怪我人という言葉に甘えて、しっかりと古泉に掴まる。
控えめに掴んでうっかり転倒してしまえば、また余計な迷惑をかけてしまうに違いない。
必要なことなのだと自身に言い聞かせていると、古泉がゆっくりと自転車をこぎ始めた。
古泉の運転はふらつきもなく安定していて、このまま何事もなければ無事に帰宅できそうであった。
しかし、みくるは気が気ではない。
通常よりも密着した状況に、何度も『仕方がない』と呟きながらも、古泉の体温にどうにかなってしまいそうだったからだ。
「朝比奈さん」
近距離からの声掛けにドキッとしながらも、みくるは「なんですか?」と返事をする。
「今日はすぐに助けられず、怪我をさせてしまいすみませんでした」
「えっ!? そんな……あたしの不注意ですし……」
「ええ、それは本当に気を付けていただきたいです」
「……ごめんなさい」
実のところ、怪我をした当初、古泉はみくるの前を歩いていたのだが、気づくのが遅れ、後の祭り状態となってしまっていた。
そんな罪悪感から送り届けることを申し出たのがこの状況の詳細になる。
「あなたが怪我をするのは、涼宮さんにも何かしら心労になるでしょう。団員想いな方です。もしかしたら、今もどこかで悔いているかもしれません」
「そう、ですよね。ごめんなさい、気を付けます」
「いえ。分かっていただけたならいいのです」
どこか棘のようなものを感じるセリフは、事実を並べただけである。しかも、周りや自身を思いやってのセリフだ。
失敗に落ち込むことはあっても、それ以上にショックを受ける意味はないはずだった。
(なんでこんなに落ち込んじゃうんだろう……)
原因を突き止めようとして、みくるは大きく首を振る。
あまりに深追いをしてしまえば、何かとてつもなく取り返しのつかない事態を引き起こしそうで怖かった。
自身の失敗と、心配からの叱責を受けただけだ。理由なんてそれだけでいい。
みくるは考えることをやめ、古泉に身を任せて目的地を待つことだけに集中した。
「……あなたとこうして接触することは、できるだけ避けたいのです。あなたもそうでしょう?」
すると、小さな声で、古泉は意味深な言葉を紡ぐ。
近距離にいるみくるだからこそ聞こえるセリフに、みくるはドキッとする。
「そ、それは……どういう意味で……」
反射的に尋ねるが、声が届いていないのか聞こえないふりをしているのか、古泉は無反応だった。
それからしばらく、無言の時間は続く。
無言の時間は気まずく、居心地の悪さを感じながらも、古泉の大きな背中に不思議と安心感を覚えていた。
二人分の体温が混ざっていく感覚は、初めて味わう未知の領域だ。
徐々に気まずさよりも心地よさが勝り、古泉にしがみつく力が強くなっていく。嗅覚は古泉自身のにおいを察知し、ますますみくるの思考は妙な方向に転がっていった。
――普段、あれだけ警戒心を高めているはずなのに。
今のみくるは、一言でいうと狂っていた。
「朝比奈さん」
すると、不意に古泉が声をかけてきた。
「はい」
みくるは夢見心地なふわふわした意識で返事をする。
「言いづらいのですが……少々密着しすぎではないでしょうか」
「……えっ」
我に返ると、自転車が目的地に到着していることに気が付いた。
そして、古泉は困ったような表情を浮かべてちらりと後ろへ視線を送っている。
「ひぇっ! わわ……ご、ごめんなさいっ」
ようやく自分がしでかしたことの重大さを思い知り、慌てて距離を取ろうと自転車から降りようとした。
「きゃああ!」
「朝比奈さんっ」
だが、持ち前のどんくささが更なる悲劇を生みだした。
自転車からうまく降りられず、盛大に転倒してしまう。
元々みくるが強くしがみついていたせいで身動きが取れなかった古泉が転倒を阻止することもできず、すべては後の祭りである。
「大丈夫ですか?」
自転車を止めた古泉は、地面に横たわるみくるに駆け寄って声をかける。
「うう……ごめんなさい、大丈夫です……」
またしても自身の不注意で迷惑をかけてしまった。
注意されたばかりだというのに……と、自己嫌悪に陥る。
「えっと……立てますか?」
すると、古泉は不自然に視線をそらした状態で尋ねてきた。
みくるは捻挫した足をさすろうと自身の足元に目をやると、とんでもない状態になっていたことに気が付く。
「……!!」
膝丈のスカートが派手に捲れあがっており、下着までは見えておらずとも、目のやり場に困る状態だった。
「ご、ごめんなさい! お見苦しいものを……」
慌てて足元を隠し、何度も謝罪を繰り返す。
「いえ……とりあえず、もうそちらを見てもよろしいですか?」
「大丈夫です……」
自力で立ち上がろうとしたが、捻挫の痛みでうまく立ち上がれずそのまま座り込んだ状態で返事をした。
そんなみくるの様子を古泉は目の当たりにし、小さくため息をつく。
「先ほど釘を刺したつもりだったのですが……うまく刺せていなかったようですね」
明らかに呆れているのが伝わり、みくるは小さく俯いた。
「本当に……あたし……ダメですね……」
「そうですよ。だから、気を付けてください。あんなに密着されると、普通の男性は勘違いしてしまいますから」
「……えっと」
前半まで理解できていた古泉の言葉が、後半から理解できなくなっていく。
「勘違い、ですか」
反射的に疑問点を口にするものの、またしても都合が悪い箇所については回答を得られず、自然と静寂が舞い降りる。
しっかりとみくるを支える古泉とゆっくり歩を進め、みくるの自宅前まで辿り着いた。
「では、僕はこれで」
目的が達成されたことで、支えという役割から任を解かれた古泉は別れの言葉を告げる。
「あっ、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げながらお礼を述べ、古泉は微笑みで返事をした。
「気を付けてくださいね。僕たちの本来の役割を忘れぬよう」
そして、最後にもう一度釘を刺された。
――本来の役割。
みくるはそれを理解しているつもりだ。
古泉に対して水面下で警戒心を抱いていることも分かっている。
おそらく、古泉もどこかでみくるを警戒しているに違いない。
すべてを理解しているはずなのに、みくるの心はどこか違う場所にいた。
先ほどまですぐ傍にあった古泉の体温が、もう恋しくなっている。
心地よい背中が、においが、声色が、支えが、ほんの少しのイレギュラーの時間が。
通常の距離感に戻っただけで、寂しさを感じてしまう。
この時間の終わりを、惜しんでしまう自分がいる。
(なんだろう……あたし……)
「では、また学校で」
「はい……また」
これ以上はいけないと、みくるはすべてを飲み込んで取り繕った。
別の自分が何かよくないことに気が付いた気がしたけれど、全部気のせいだと目を瞑る。
だけどそんな自身とは裏腹に、古泉の姿が見えなくなるまで、家の中に入らずに見つめ続けていた。
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今の自分には、恋をする理由も、権利も、意味さえもないと、心から思う。
自身には課せられた使命だけがあって、それ以外に何の意味も持たない。
今楽しいと感じるこの日常さえも、いつかは別れを告げなければならない。
それを考えるだけでも憂鬱だというのに、万が一恋に落ちてしまったらどうなってしまうのだろう。
世の中には『恋の病』なんて表現する者がいるが、まさにその通りだと思う。恋に落ちた瞬間、きっと正常な自分は消えてなくなってしまうだろう。
だから病に蝕まれる前に予防線を張るのだ。
警戒レベルを最大まで上げて、誰にも惹かれぬよう、情が湧かないように。
なのに、今の自分は……一言でいうと、狂っていた。
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お題箱くださりありがとうございました!(067:恋は人を狂わせる)