二人が恋と向き合う話~前編~

古泉×みくる


「付き合ってくださいませんか? 僕と」
 物語の始まりは、もっと穏やかでもよかったと思うんだ。
 こんなにも唐突に、突然始めたって、誰も理解してくれないことは自分自身が一番よく知っていたはずなんだ。
「え? え、えええええ!?」
 ほら、相手もこんなに困っている。
 僕には、言葉が足りなかった。
 説明だって必要だ。
 この物語をこれから読む人にも、目の前で動揺する彼女にも。
 ………
 ……
 …



 時は既に二月。
 二年生の僕たちは、進路について具体的な話を持ち出されながらの生活を送っていた。三年生は受験のために休みを取っており、二月からは顔を出していない。朝比奈みくるは学校に顔を出すことが少なく、文芸部の部室に来る回数は極端に減ってしまっていた。
 その影響でSOS団の活動は少しだけ停滞している。……去年に比べて、僕らはあまりにも忙しくなってしまった。
 それでも団長である涼宮ハルヒは、週に一回……多くて二~三回ほど召集をかけている。
 まあ召集をかけたとしても、内容は勉強会、近況報告、ちょっとした息抜きや涼宮ハルヒ相談室が開かれるくらいで、彼女自身が無茶なことを提案することは有り難い事に少なくなった。
 勿論、彼女のストレスのせいか閉鎖空間に神人が現れることもあるが、それでも世界は救いの方向へ進んでいた。僕が出動する回数も減り、機関からの指令もほぼ皆無となっている。
 いいことづくしだった。
 僕らがここから去った時、涼宮ハルヒが不安定になる可能性は極めて高いが、彼女の状態は良好で、今の状況を維持することができるなら、世界が破滅に向かおうなんてありえないことだと確信していた。
 今後僕らが立ち向かうのは、学生なら一度は悩む進路であり……これからの自分の生き方であった。
 長門有希は元いた場所へと帰っていくはずだが、彼女自身、今の状況に感化されてしまったこともあってか、普通の生活を望むかもしれない。
 涼宮ハルヒは、キョンくんを同じ大学へ行かせようという計画を立てており、キョンくんは嫌々そうに見えつつも、彼女の計画にノリノリである。きっと二人は同じ道を歩もうとしているのだろう。それも悪くないかもしれない。『涼宮ハルヒには願望を実現する能力がある』と機関からも話を聞かされていたから、もしかしたら本当に実現するかもしれないな。
 朝比奈みくるは……彼女は、高校を卒業と同時に未来へ帰ることが決定している。それは未来の掟であり、向こう側の命令でもあった。どんなことがあっても、過去に戻った未来人は未来へ帰還すること……。捻じ曲げることが許されないルールだった。
 そして僕は……。
 進路より何より、別のことに悩んでいた。
 未来へ帰ってしまう、朝比奈みくるのことである。


「それにしても……あのみくるちゃんが海外留学だなんてね」
 驚いた声でぶつぶつと呟く団長は、特等席である団長の席で呆然としていた。
 久しぶりに召集がかかり、一人を除く四人のメンバーが集結したこの場所は、少しだけ、動揺の雰囲気が漂っている気がする。……本当のことを知らないのは、涼宮ハルヒくらいだが。
 朝比奈みくるが未来へ帰ることは既定事項であった。
 本当のことを知らない人間には、海外留学をするという理由でここから立ち去ることを告げている。
 彼女の正体をむやみに明かすことは許されることではなかった。
 できれば涼宮ハルヒくらいには本当のことを告げたかったし、キョンくんからも希望があったが、朝比奈みくる本人が拒否。多分、彼女で言う『禁則事項』に当てはまってしまうという理由もあるのだろう。
 そういうわけで、涼宮ハルヒには『海外留学』ということでここから去ることを告げている。
 初めに話した時の状態は尋常ではなかったし、その後神人が現れた事は言うまでもなかったが、約二年間過ごしてきた……特に『大事な仲間』であれば、この反応はおかしくないだろう。
 暫くは少し不安定な状態が続いたが、キョンくんが彼女を支えてくれたおかげで立ち直り、現実を受け止め、現在の彼女がいる。
 きっともう、朝比奈みくるのことで不安定になることはないだろうと、心のどこかで確信していた。もし彼女が落ち込んでも、傍にキョンくんがいれば問題はないと思っていた。

「でも、古泉くん残念ね」
 そんな、少し前の出来事を思い出しながらボーっとしていると、涼宮ハルヒがおかしなことを口にした。
「何がですか?」
 勿論、彼女の言葉を理解できない僕は、首を傾げて尋ねることしかできない。
 ボーっとしている間に何か話が進んでいたんだろうか? 僕が把握している分に関しては、朝比奈みくるの話をしていて、「海外留学なんて意外ね」なんてことをのんびり話していたとばかり思っていた。
 どう考えても僕は無関係のはずだ。
「嗚呼。俺も十分残念だが、一番残念だと思っているのはお前だろうな」
 僕と同じく理解できないと思っていたキョンくんまでもが同じことを言い出し、僕は更に混乱に陥る。
 何が残念なんだろうか。
 キョンくんなら、『朝比奈さんのメイド姿が拝めないなんて……』とか、『朝比奈さんのお茶が飲めなくなるなんて……』という意味で残念だと言っているかもしれないが、僕自身、彼女がいなくても大丈夫なはずだ。メイドはともかく、彼女のお茶は個人的に気に入っていたから、多少は残念だと思うけれど……それでも、キョンくんに比べれば大したことはなかった。そんなに大げさに言われる筋合いはない……はずだ。
 なのに、この状態は何だと言うのだろう。
 僕は少し考える仕草を見せた後、お手上げのポーズを見せ、再びいつもの笑顔を浮かべた。
「何が残念なんでしょう?」
 不思議そうに僕を見つめる視線が突き刺さり、悩ましげに涼宮ハルヒとキョンくんが見つめ合う。僕の言葉を聞いて更に眉間にしわを寄せる二人は、とうとう大きな溜息をついてしまった。
「お前……意外と鈍感なのな」
「そうね。古泉くんは人のことは分かっても、自分のことは分からないのかしら……? 驚きね」
 呆れた声で会話をする二人に、思わず苦笑して「すいません」と謝罪をする。


 ……このように、僕は何も知らない『振り』をした。


 彼女達も、そんな僕に騙されては不思議そうに僕を見つめていた。鈍感だと、気付いていないと、そう考えているに違いない。
 だけど本当は全て分かっている。今更とぼけたってこの事実は変わらない。
 僕が朝比奈みくるに好意を抱いていることは、否定したいけれど、否定できない現実だった。
 いつもいつも、誰にも気付かれずに静かにこの想いが終わることを願っていた。
 そうじゃないと、僕らはあまりにも残酷だったからだ。
 残酷な未来を予測できるのに、わざわざ今を楽しむために残酷な選択肢を選ぶ必要性は皆無で、無駄なことであることを僕が一番知っていた。
 恋は盲目で、とんでもない選択肢を選んで後悔して、後で大きな傷を負う。
 両思いならまだしも、片思いの段階で他人の人生をめちゃくちゃにすることは許される行為なのだろうか?
 朝比奈みくるに与えられた指令、掟、禁則事項……全ては知らないけれど、ある程度把握している自分が、彼女を苦しめる選択をする必要はなかった。
 僕一人が諦められたらそれで完璧だった。あとは、僕が誰にも本音を漏らさなければ……それで……。
 それが唯一彼女の幸せのためにしてあげられることだった。
 僕にできることはあまりにも少なく、何度も情けないと思った。
 僕は、どうして彼女を好きになってしまったんだろうか?
 彼女を想う事が後々辛いことに変わることを知っていたのに、僕は――。

「帰りましょ。みんなの近況も分かったことだし」
 僕がボーっとしている間に、SOS団の活動が終了していた。僕と朝比奈みくるの話題もいつの間にか面影もなく消え去り、次に頭に入ってきた言葉は、団長による本日の活動終了を宣言するものだった。特に近況報告をしたわけではない気がするが……。というツッコミはキョンくんに任せて、僕らは帰り支度を始める。
 今日も無事終えることができた。
 最後まで朝比奈みくるが現れることはなかったけれど、彼女を見るたびに想いが膨らんでいくのだから、ある意味会えない事を嬉しく思った。彼女の前でさっきの会話をされた時には、彼女も困るだろうし、僕も想いを隠すことに必死になってボロが出てしまいそうな気がする。だから、何事もなく一日が終わるとホッとするのだ。
 それに、今全てが崩れたら、今までの苦労が全て無駄になってしまうから。
 せめて……彼女がいなくなるまでは、隠し通しておきたかった。
 それが僕にできることなんだと、自分に言い聞かせてきたのだから。

 いつもなら朝比奈みくるの着替えで廊下に待たされる僕とキョンくんも、誰も着替えないこともあってか、教室でゆっくり帰り支度を済ませることができた。
「さてと。鍵閉めるからみんな出た出たー!」
 いつもより早く全員が帰り支度を済ませ、教室を後にする。
 そんな些細なことで彼女の存在を思い知らされるだなんて、僕は考えもしなかっただろう。
 涼宮ハルヒが部室に飾ってあるメイド服などの衣装を寂しそうに眺めなければ……僕はもう少しだけ、今日を楽に終えることができたろうか?
「ハルヒ? 何ぼーっとしてんだ?」
「な、なんでもない。みんな忘れ物ない? 後で言い出したら承知しないわよ!」
 次に見た表情は、いつも見る彼女の表情だった。
 平然を装っても、強がりな彼女でさえやはり寂しいと思うこと。
 些細なこと……本当にこれは、些細なことなんだろうか?

「これでよしっと。じゃ、職員室に寄って帰りましょ」
 鍵を閉めたことを確認し、僕達は二人ずつ横に並んで歩き出す。
 涼宮ハルヒの隣を静かな足取りで長門有希が歩き、僕の隣にはキョンくんが歩いている。
 並んで歩きやすい、丁度いい人数。なのにどうして、ふとした瞬間寂しく思うのだろう。
 目の前を歩く女の子を、僕らが後ろで見守る。それが当然だった。
 当然が、また一つ消える。とても今更なことであった。
 僕はずっと、寂しく思う日々が訪れることを知っているはずだったから……だから、消えていく当然も大したことがないと言い聞かせていた。覚悟を決めろと、自分の心の中で何度もしかり続けていたはずだ。

「いいのか、このままで」
 比較的小さな声で……少なくとも前の二人には聞こえない、僕にしか聞こえない声で、キョンくんは僕に声をかけた。
「何がですか?」
 内容が読めないため、同じように小さな声で返答する。
 すると小さな溜息が僕の耳に届き、前を見つめたまま話を始めた。
「朝比奈さんだよ。いちいち言わないと分からないのか? お前は」
 半ば呆れ声のそれは、少しだけ僕を混乱させる。
 平然を必死に装うのに、何故かすぐにそれが潰されてしまう。
 キョンくんといると、何故こんなにも調子が狂ってしまうんだろうか?
 僕だけじゃない。
 きっと彼に関わった全ての人間が、何かしら影響を受けて、変わっていくんだろう。
 例えば、長門有希。例えば、涼宮ハルヒ。例えば、朝比奈みくる。例えば……。
 涼宮ハルヒを中心に変わっていると思っていた。現にそうであるし、彼女が動かなければ平和が訪れる。
 でも、裏ではキョンくんを中心に変化していた。
 だから僕らも、筋書き通りの生活を送ることができない。
「お前は気付いているだろうし、俺がお前のことをどうこう言うつもりはねえよ。でもな、見ててイライラするんだよ。どうにかしたいくせに、諦めようとしてるところも、無理やり自分を押し殺してへらへら笑ってるところも」
 キョンくんは怒ったような、不機嫌そうな表情で言った。どうやらこの話は、さっき遠い彼方へ消えてしまったはずの話題……僕と朝比奈みくるの話らしい。
 上手くごまかせたとばかり思っていたのに、彼は全てお見通しといった感じで、僕に自分の考えをぶつけている。
 本当に、お節介な話だった。
 この恋は叶わない。どうしても叶えられない現実があるんだ。叶わぬ恋に溺れている暇なんてない。
 それを理解しているからこそ……この恋は手放さなくてはならないのだ。
「キョンくんは知っていますよね? 彼女の運命を」
 静かに、諭すように声をかける。
「知ってる」
 不機嫌な返答が僕の耳に入ったのを認識してから、ゆっくりとまた、話を進めていった。
 僕の想いは叶わないこと、彼女の負担になること、もう時間がないこと、諦めれば丸く収まること、僕が決意したこと……彼女の、運命の話を。
 その長そうに思える話は、職員室へ鍵を返しに行くだけの短い間に終了し、僕はゆっくりと前を向いた。
 涼宮ハルヒと長門有希は職員室に入ってしまったため、この廊下にはキョンくんと僕しか存在しなかった。だから、話すのは丁度いいかもしれない。
 はっきりと言えば、それで終わりなのだ。
「これは、仕方のないことです。一時の幸せのために、未来を犠牲にする必要なんてないんです」
 そしてそれが僕の意見である。この意見に揺るぎなどなかった。
 寂しくても、苦しくても、きっとそれは今だけで、ほんのちょっとの今を我慢すれば、僕も彼女も救われる。そう、信じていたんだ。
「くだらない」
 でも、そんな想いも一蹴される。
 僕の意見を述べるのに何分もかかったというのに、返答は数秒であった。
「何かお前、諦める理由を必死に探しているようにしか見えないぞ。それはただの言い訳に過ぎない。お前さ……ただ傷つきたくないだけなんだろう? 自分が傷つくのが嫌で、必死にごまかしてるだけなんじゃないのか?」
 それから僕の反論もないまま、捨て台詞を吐かれた。
「あーあ。お前に朝比奈さんは勿体ねえよ。お前が何もしないならそれでいいさ。古泉なんて所詮、ただの臆病なお子ちゃまなんだからな」


 この言葉の後、キョンくんは僕や朝比奈さんの話はしなくなった。
正直、僕も返す言葉が見つからなかった。それは、キョンくんにしてはきつい言い方だったかもしれないが……そんなことで何も言えないとは、本当に情けない話だ。ここで反論していれば、キョンくんも諦めてくれるに違いなかったのだ……そして、僕も。
 キョンくんは今まで応援してくれていたんだろうか? 見守っていてくれたんだろうか?
 ということは、僕はそんなキョンくんを裏切り、キョンくんには呆れられ、さっきの会話の結果、見放されてしまったのか。
 いや、僕は「応援してくれ」なんて頼んでいない。協力してくれとも、相談に乗ってくれとも頼んでいない。僕は一言も言わなかった。
 気にする必要はない。僕が気まずい想いをする必要も、従う必要も、彼らの期待に応える必要も……何もない。きっと、涼宮ハルヒもそれなりに期待していたんだろう。キョンくんと一緒に見守っていたんだろう。
それは一方的な好意だ。僕が受け取る義理など、少しもないんだ……。
 なのに、どうして苦しいんだろうか。どうして……想いが大きくなっていくんだろうか。
 消し去る予定のその気持ちが……どうして、今になって震えるのだろう。大きくなっていくのだろう。


「ごめん! 古泉くん、ちょっと残ってもらってもいいかしら?」
 もう下校するのみかと思っていたのに、職員室から出てきた涼宮ハルヒは、また何か思いついたのか……僕に詫びを入れていた。
「おいおい。明日じゃ駄目なのかよ」
 キョンくんもどこかうんざりした様子で、涼宮ハルヒにツッコミを入れていた。
 ……きっと、僕と彼女が二人っきりになる環境が嫌なんだろう。
「僕は別に構いませんが……でも、キョンくんに悪いですし……また日を改めませんか?」
 ちらりとキョンくんに視線を向けると、「余計なことは言うな」と言いたげな表情で僕を睨んでいるようだった。次に涼宮ハルヒへ視線を移すと、こちらも動揺した様子で顔を赤らめ困惑していた。
 ……本当に、可愛らしい人たちだ。
「ううん、いいのよキョンなんて! キョンには有希を送ってもらう役目に回ってもらうから! どうしても今日話しておきたいことがあるのよ」
 超能力者を名乗る自分が、どうして、目の前で思いつき発言をしている彼女の思考を読むことができないんだろう。
 わざわざ残って話すことなんてあるはずないのだ。……少なくとも、僕には話すことなんてなかった。
「お前なあ……」
「いいから! あんたはさっさと有希を送ってきなさい!」
 仲良しのカップルを遠くから見守りつつ、僕は彼女がわざわざ残って話したいことを予測してみることにした。
 もしも彼女の完全な思いつきで、とんでもない企画ものだったら……僕に予想することは不可能だ。でも、職員室に鍵を返しに行っただけの彼女が、職員室でとんでもない企画を思いつくはずがない。
 最近は彼女の動向も落ち着いたものになり、三学期に入ってからは一度もとんでもないことを言い出していなかった。
 じゃあ、何だって言うんだろう?
 先ほどの話題のことなんだろうか? 僕と朝比奈みくるの……。
 もしもそうだったら、僕は適当に理由をつけて帰るつもりだけど。
「貴方は残って」
 すると、一人取り残された長門有希が僕に声をかけた。
 ほんの少しだけ、「帰ってやろうかな」と思っていたせいなのだろうか? 彼女は僕に気配を感じさせることなく近づいて、一言告げた。
「これは貴方が変わるキッカケ。帰ってしまえば、貴方は一生後悔する」
 なんのお告げなんだろうか?
 占い師のように何かアドバイスする彼女は、じーっと言い合いをしているカップルに目を向けた。
 ……それがどこか羨ましそうな視線であることを、彼女はまだ知らないんだろう。

「あー分かった分かった。あんま遅くなるなよ」
 長門有希からのありがたいお告げが終わると、キョンくんたちの言い合いもいつの間にやら終了していた。結局は予想通り、キョンくんが折れていたけど。
「分かってるわよ。じゃあね、有希」
「じゃあ」
 くるりと背中を向け、二人は歩いていく。そんな二人の背中を羨ましいなという気持ちを込めて見送った。一度だけ長門有希が振り返ったが、視線で「帰らないように」と釘を刺された気分だ。僕は分かりましたと言い返すように視線を送り返す。それを信じたのか、ようやく彼女は前を向いて歩き出した。

 次に涼宮ハルヒの方をちらりと覗き見てみると、彼女も少しだけ羨ましそうに見ているようだった。きっと、キョンくんと並んで帰りたかったのだろう。
「お話の方、長くなりますか?」
 このままこうして立ち尽くしても時間の無駄だと思った僕は、涼宮ハルヒに声をかけた。呆然と立ち尽くす彼女は、僕が声をかけても動かなかったものの、暫くして彼らの背中が見えなくなると、ようやく我に返ったのか、冷静に返答していた。
「ううん。きっとすぐ終わるわ。でもこれは二人で話さなきゃいけないって思ったから……ごめんね、古泉くんも早く帰りたかっただろうなって……思ってたんだけど……」
 そして、彼女にしては珍しい謝罪。それはとても貴重だったので、どんな記憶喪失があったとしても、この言葉だけは覚えておきたい。
……というのは冗談で、僕に対しての謝罪は割りと耳にしていたから、いつも通りさらりと流しておく。
「気にしないでください。気にしたら気にする分だけ時間が過ぎてしまいますよ」
「あ、そっか……そうよね。うん。じゃあ、もう気にするのやめるわ」
「それで……どうされたんですか?」
 できるだけ話を先に進めたい。
 僕の想いが溢れ出ているようで、飛び出す言葉全てが彼女を急かすようだった。
 早く帰りたい。身に纏っている制服を脱ぎ捨てて、一日の疲れを取ってしまいたい。上辺だけの自分をその辺に置いて、楽になりたい。
 そんなことばかり考える自分に、余裕のなさを実感させられた。
 彼女の思いつきに振り回されることは慣れていたはずなのに……。やっぱり自分はまだまだ未熟だった。そうとしか思えない。

「みくるちゃん」

 今日はどうやらボーっとすることが多いらしい。僕がボーっとしている間に、涼宮ハルヒは本題に入っていた。
「みくるちゃんのこと、ほんとは好きなんでしょ?」
 また、か。
 声にならない呟きを心の奥底で零して、驚き顔を笑顔に変えた。
「違いますよ」
 やっぱり、キョンくんと涼宮ハルヒはどこか似ている。そう思わざるを得ないと、今この瞬間に思った。
 おかしなことを、同じ日に言う。
 それとも、僕があからさまだったんだろうか? そんなこと、あるはずないと思っていたのに。
「違うなんてそんなこと絶対ないわ。だって古泉くんは……みくるちゃんといる時が一番幸せそうだったんだもの」
 涼宮ハルヒの表情は真剣なもので、僕が笑顔を浮かべ忘れるのも無理がないと思った。
 場所は変わらない、職員室前。
 放課後だからなのか……ほとんど人の通らない廊下。静か過ぎるこの場所は、僕にとって少し不利な場所だった。
 ……あまりにも、静かだったんだ。
「古泉くんだけじゃない、みくるちゃんも。思い違いだったらあたしすっごく恥ずかしいけど……でも、あたしだけじゃない。キョンも有希もそう思ってる。口出しするのってすごくお節介だって思ってたけどね、もう卒業が目の前にあるって分かると……我慢できなくて」
 だから、彼女の声がよく通っていた。もしもうるさい場所だったら、人通りが多ければ……僕は聞こえなかったとごまかしていただろう。何か言い訳を考えて、この状況から抜け出していただろう。
「できれば、想いを伝えてほしいの。みくるちゃんが海外留学するって言ってたけど……でも、全く会えなくなるわけじゃないわ。だから……本当に口うるさいと思うけど……みくるちゃんにはちゃんと、好きって気持ちは伝えるべきだと思うの」
「貴女は……」
 反射的に反論しようとして、僕は思わず口を噤んだ。
 僕は今、ものすごく感傷的な言葉を叫ぼうとしていた気がする。彼女の気持ちも考えずに、ただ思うがままに。
「いえ、何でもありません」
 笑顔を浮かべながら、僕は真剣な表情を浮かべる彼女を見つめた。
 むきになってはいけない。だって、彼女は何も知らないんだ。いくら遠く離れたって、また会える希望を抱いているから。残酷な未来を知ってしまえば……きっと、彼女だってこんなこと言えないに決まっている。
「……古泉くんが何でそんなに否定するのかは分からないけど……あたしとキョンが付き合う時は、古泉くんにすごく良くしてもらった。今度はあたしがお返しできればいいって思ってた。みくるちゃんはすごく遠くへ行ってしまうって知った時……二人のこと考えてたら、すっごく悲しかったわ。遠距離恋愛が辛いから、みくるちゃんを悲しませるから言わないのよね? 本当の気持ち」
 涼宮ハルヒの真っ直ぐな言葉が、僕の心にぐさぐさと突き刺さる。
 確かに、僕は涼宮ハルヒとキョンくんが恋人になるための手伝いをし、見守ってきた。
 僕も今の彼女と同じように、お節介で無責任なことを言っていたかもしれない。しかもそれには世界を救うための任務も含まれていて、とても純粋な行為とは思えなかった点もある。
 あの時の彼女やキョンくんに、僕は何をアドバイスしていたんだろう? 彼女達が思い合っている事は知っていたけれど……これじゃあ、今の僕には「ほっといてくれ」「お節介だ」なんてことは言えないに決まっている。

「あたし、昔変な人に会ったの」
 先ほどの流れでは想像もできない言葉が飛び出して、僕は目を丸くする。
 驚くほどぶっ飛んだ展開に、何も反論できぬまま彼女の言葉に耳を傾けていた。ここは聞く側に徹する方が懸命だと思う。
「どんな人なんですか?」
「夜の学校に入って、グラウンドに宇宙人を呼び込む魔方陣みたいなのを描こうとしてね。ほんとにバカだったと思うわ。その時に出会った人なの。七夕の夜、突然現れてあたしの手伝いをしてくれた人。見ず知らずの人なのよ? なのに、手伝ってくれた」
 真剣な表情が緩んで、穏やかな表情へと変わっていく。
 とても大切な思い出なんだろう。彼女は懐かしみながら、ゆっくりとゆっくりと話していた。
 その出来事には覚えがあり、その『見ず知らずの人間』がキョンくんであることは言うまでもない。……知らないのは彼女だけだが。
「あたし、あの時ちゃんと名前聞けなくて後悔したわ。アイツなんて言ってたと思う? ジョン・スミスだって。人のことバカにしすぎなのよね。顔も暗くてよく見えなかったって言うか覚えてないっていうか……」
 長い長い、思い出話。
 彼女が口ごもっている間に一息つき、窓の外へ目を移した。
 夕焼けが眩しく目に入り、そろそろ帰った方がいいかもしれない……と思い始めた。
 話をするだけなら、帰りながらでもできる。あんまり遅くなってしまうと、彼女を心配する誰かさんに後で怒られてしまうだろう。その提案をするなら、今しかない。
 だから、できるだけ自然な感じで……彼女に視線を合わせて、この提案を持ちかけようと思った。
 それが一番いいアイディアだと、思っていたんだ。
「涼宮さん、あの……」
「あたし、あの人が好きだったのよ」
 僕と彼女の声は、重なってしまった。
 ……なんとも気まずい展開に……僕は少しだけ後悔した。
 でも、ここはあの涼宮ハルヒ。僕の言葉は無視されて、そのまま話を進めていた。さっきの……彼女の思い出話の続きを。
「あの人が多分初恋だったのよ。だからとても後悔したわ。あれから『ジョン・スミス』には会えてないし、きっともう会えないことも分かってる。でも、伝えたかったのよ。本当はもう一度会って、それで、言いたかった。ありがとうっていうのも、好きっていうのも。まあ……今はただ好きだったって言うしかないんだけどね……」
 僕は、どうして何も言えないんだろうか?
 反論できないということは、彼女やキョンくん達に有利な状況を作るだけなんじゃないのか?
 僕が朝比奈みくるへ想いを寄せていることになってしまうんじゃないのか?
 たくさんの自分に対する疑問や問いかけが浮かぶ。
 その間も、涼宮ハルヒは言葉を止めなかった。
「古泉くん。いなくなった後に伝えようって思っても、伝えられない事だってあるの。みくるちゃんは海外に行くだけで、永遠に会えなくなるわけじゃないけど……でも、想いを伝えたくなった時に、今みたいにすぐに伝えることはできないわ。好きなのに諦めるなんてすごく悲しい。卒業まで……みくるちゃんが日本からいなくなるまでに……できればたくさん思い出作ってほしかった。幸せな二人を見ていられることが、あたしたちの幸せにも繋がると思ってたの」
 問いかけが増えていく。そして、僕の決め付けていた想いもどんどん崩れていく。
 過去の彼女が、こう思えるようになるだなんて思えなかった。
 誰がそうさせたのか。それは紛れもなく、僕を含めた周りの人間だった。
 自分の意見ばかりを突き通して、どうしようもない行動ばかりとっていた彼女。それが今、人の幸せが自分の幸せだなんて言える。
 そんな彼女がこの世界を破滅へ追い込むはずがなかった。彼女は変わっていったのだ。
「古泉くんは優しいから、みくるちゃんを困らせたくない気持ちがあるんだと思う。困らせたくない気持ちはすごく分かるけど……でも、それで古泉くんが悲しい思いをしたら意味がないと思うの。みくるちゃんだって、頼りないように見えてもとっても強い子よ。みくるちゃんなりに思いを受け止めてくれると思うわ」
 涼宮ハルヒにお説教を食らう日がくるとは思いもしなかった。彼女がこんな風にアドバイスしてくれる日がくるとは思わなかった。
 どうして何も言えないんだろう?
 これじゃあ、全てを肯定してしまう。
「このままじゃ、ただ逃げているようにしか見えない。何も気付かない振りをして、必死に理由をつけて、逃げて、涼しい顔して……」
 そしてまた、キョンくんと同じことを言うのだ。
 一人ならまだしも、二人に言われるとなると……僕は、どう反論していいか少し悩んでしまう。
「どうするかは古泉くん次第だと思う。でも、後悔しないようにしてほしいの。後で気持ちを伝えておけばよかったなんてことになっても、すぐに伝えられなくなると思うから」
 ようやく笑顔を浮かべた彼女は、言いたいことを言えてすっきりしたようで、とても清々しく見えた。
「なんかごめんね。すっごく言いたくてしょうがなかったの」
 僕は何があっても、彼女に勝てる気がしなかった。


 涼宮ハルヒからの話が終わり、僕らはゆっくりと下校するために下り坂をひたすら歩き続けた。あれだけぺらぺらと話していた彼女は、帰り道では全く話すことなく、ただ無言で歩いていた。
 僕も何か話そうと必死で話題を探してみたものの、今の空気に合うような話題が全く思いつかず、彼女と同じように無言で歩いていた。とても気まずいのは言うまでもない現実である。
「あ……そうだ」
 その喋りづらい雰囲気の中で、彼女は突然何かを思い出したように声を出した。
 またしてもお説教で、さっきの話で何か言い忘れでもあったんだろうか?
 それを考えると少しだけ憂鬱になりそうになるが、無言の空間で気まずいのよりはある意味マシかもしれない。
 僕は特に口を挟むことをせずに、黙って彼女に耳を傾けた。
「明後日の金曜日。みくるちゃん来るんだって」
 それはお説教ではなかったけれど、とてもお節介な話ではあった。
「そうなんですか。久しぶりなので皆さん喜ぶでしょうね」
 何の気もない振りをして、どうにか返事をする。
 心が弾んでいるなんて、そんなの嘘であってほしかった。
「古泉くんが一番喜んでるかもね~」
「そんなことないですよ。涼宮さんもすごく喜んでるじゃないですか」
「そうかしら? んー……まあ、そういうことにしといてあげる!」
 涼宮ハルヒは、極上の笑みを浮かべて僕に言った。
 できるだけ動揺しないよう、同じように笑みは浮かべてみるけれど……正直、揺らぐ気持ちを抑えるだけで精一杯だった。

 僕はそんなに簡単な人間だっただろうか?
 二人の人間に悩みを指摘され、自分が間違っていると言われ……。そんな、個人個人の意見を押し付けられて、僕は悩み、揺らぐ。とても今更なこと。
 ふと、伝えた方が楽かもしれない、と考えた日々を思い出した。まだ、恋愛感情を抱き始めて間もない頃だった気がする。
 どうして僕は、あんなに早い段階で諦めてしまったんだろうか? 必死に諦めるための理由を探して、何も感じていない振りをして。恋愛をするのに、そこまで必死に諦める必要はあったのだろうか? それなら何故、僕は恋をしたのだろうか?


 焦りが生まれ、冷静だった自分の考えが崩れていく。
 さすが、僕の予測の斜め上を行く、涼宮ハルヒとキョンくんだ。
 呑気に関心し、僕はちょっとだけ顔を上げる。
「いつから、僕のこと、気付いていましたか?」
 何も言えずに黙り込んでいたはずの僕は、絶対しないと誓った質問を投げかけていた。
「え?」
 涼宮ハルヒは驚いた様子で反応し、すぐに穏やかになる。
「……確か、あたしとキョンが付き合い始めた後だったと思う。気持ちに余裕が出て、ちゃんと周りを見渡して……古泉くんがみくるちゃんに優しい視線を送っていたの見ちゃって。キョンに相談したら、キョンはもっと前から気付いてたみたい。有希はキョンが気付く前から知ってたって。キョンが言ってたわ」
 なんとも恥ずかしい話だ。
 結局僕は、一人でバカみたいにもがいていたのだ。
 一人でカッコつけて本当の自分を隠し、何も気付いていない振りをする。
 でも、朝比奈みくるへ特別な視線を送った時点で、全てが水の泡だったのだ。

「でも、それに気付けたのは、あたしたちがSOS団として仲良くできたからだと思うの。古泉くんをよく知ってる人、思っている人以外だったら誰も気付かないと思う。古泉くん、ポーカーフェイスうまいから」
 涼宮ハルヒが丁寧に答え、空からゆっくりと彼女に視線を移した。
「ありがとうございます、いろいろと」
 立ち止まることなく、坂道をゆっくりと下りながら。
 僕はようやくお礼を言うことに成功した。
「あたしも古泉くんやみんなのおかげで幸せになれたわ。だから次は古泉くんとみくるちゃんの番。二人なら絶対大丈夫、大丈夫よ」
 彼女にしては、珍しい励ましの言葉。てっきり、だらしないだの、カッコ悪いだの、説教を食らうものかと思っていたせいか、少しだけ驚いてしまう。
 ……別に、そういう言葉がほしかったわけでもないのだが。

「涼宮さん」

 ゆっくりと坂を下るために動かしていた足を止め、一度だけ深呼吸して、力を抜いた。
 涼宮ハルヒは少しだけ不思議そうな表情を浮かべながら、足を止めて振り返る。
 そして、彼女と目が合ったことをよく確認してから、最後の質問と心に決めて口を開いた。

「僕は、恋をしてもいいのでしょうか?」

 それはとんでもなく簡単なことで、僕も答えを知っていること。
 でも、聞かないと不安で前へ進むことができないと思ったせいか、思わず尋ねてしまった。
 僕はきっと、背中を押してほしかったのだ。僕以外の誰かに、ぽんっと軽く。
「恋をするのに権利も義務もないのよ。好きだと思う人がいるなら、突っ走っちゃいなさい!」
 笑顔を浮かべて、いつもの口調で彼女は言った。
 僕はそれにほっとして、何故か一つの決心を胸のうちに固めていた。
「ありがとうございます」
 どうやら僕は、本当に変わってしまったようだった。
 今までなら、諦めたものはもう手に入れるつもりはなかった。
 諦めるくらいなら手を出さず、何も知らなかったことにすればいいとばかり思っていた。
 僕なら完全にごまかすことも可能だった。誰にも気付かれないように、想いを消去することも可能だったはずだったのに……。
 最初から、諦める気などなかったんだ、僕は。
 そんな簡単なことに気付くのに、僕はどれだけの時間を費やしただろう?
 無駄な時間を取り戻し、早期に彼女へ想いを告げ、二人の時間をもっと増やしていればよかった。
 いきなり後悔に走る僕。
 でも、時間は元に戻ることはない。絶対に。
 その後悔を糧に、僕は前へ進んでいこう。未来の僕の隣に朝比奈みくるがいるかどうかは分からないけれど、何もせずに嘆くことだけはしたくないから……怖がらず、逃げず、カッコつけずに、前へと進んでいこう。
 そうでもしないと、背中を押してくれた仲間に申し訳が立たない。
 結果に怯えるのは、僕が何らかのアクションを起こした後にしよう。
「あ」
 思わず声に出して、あることを思い出した。

『これは貴方が変わるキッカケ。帰ってしまえば、貴方は一生後悔する』

 帰り際に長門有希に言われた言葉だ。
「どうしたの? 古泉くん」
 涼宮ハルヒが不思議そうな顔で僕を見ている。僕は何もなかった振りをして、また歩き出した。
「いえ、何もありません」
 ポーカーフェイスでも何でもない、素直な笑顔を浮かべて彼女の隣を歩く。
 ただ、もう逃げるのは止めて、走り出そうと誓った。



 だって、長門有希にまで応援されてしまえば、逃げ続けるわけにはいかないに決まっている。



~後編~

---------------
2007年12月30日のコミケで発行した古みくでした。
別名義でしたが、お手にとってくださった皆様ありがとうございました。