甘い雰囲気が漂うアキバの街を、マリエールは溜息をつきながら歩いていた。
「あかん……ちっともうまくいかへん」
思わず零れ落ちた言葉は更に自分自身を落ち込ませる。
ただでさえ、街中で行われるやり取りに落ち込んでしまっているというのにこのザマだ。
「え、オレに?」
「うん……受け取ってもらえると、嬉しいんだけど」
「ありがとう! すっげー嬉しい!」
とある男女の隣を通り過ぎた時に聞こえてきた会話に、どうして自分はこうなれなかったのだろうとへこむ。
へこみっぱなしのマリエールは、だんだんと目尻に涙を浮かべはじめた。
「……うちの、意気地なし」
腕の中に抱え込んだ一つの綺麗にラッピングされた袋が、虚しくかさりと音を立てた。
今日はバレンタインデーだ。
そのチョコレート会社の陰謀とも呼ばれる行事は異世界でも例外なく行われ、一週間ほど前からマーケットではチョコレートが流れだし、様々なチョコレート菓子を専門とした店も出店された。
アキバの街はよそよそしく落ち着かない雰囲気が漂い、その雰囲気は<三日月同盟>内にも流れ込んでいた。
女同士でどんなチョコレートを用意するか、誰に渡すかという話で盛り上がり、男性陣は自分がもらえるかどうかでそわそわしている。
その中にマリエールも混ざっており、その時のマリエールはとてつもないテンションでヘンリエッタとガールズトークに燃え上っていた。
ヘンリエッタは『アカツキちゃん一択ですわ!』と何をあげるか熱弁していたし、マリエールはみんなにあげると言ったものの、本命がいるとにおわせる発言をしたように思う。
誰とは言わずともヘンリエッタには伝わっていたらしくマリエールは動揺を隠せなかったが、酷くからかわれるものと思いきや意外にも協力的で、あれやこれやと計画は進行、<記録の地平線>に所属するにゃん太を招いてチョコレート作りに励んだ。
途中でセララやにゃん太と同じギルドのアカツキも加わり、ヘンリエッタとセララが大興奮する中、何とか当日までに作り終えたことは鮮明な記憶として脳内に刻み込まれている。
ラッピングを終えた時には既に当日の朝を迎えており、眠ることもなく出来立てほやほやを<三日月同盟>のメンバーに配り歩く。
男女関係なく渡したチョコレートは皆にとても喜ばれた。
メンバーが多いこの状況で用意するのは大変だったものの、こうして喜んでもらえるだけで苦労も報われるものだ。
マリエールはいつもよりも満足げな笑顔を浮かべ、徹夜明けであることさえも忘れてしまうくらいに喜びを感じていた。
その後はマリエール、ヘンリエッタ、セララの三人で<記録の地平線>のギルドまで足を運ぶ。
ギルドにはメンバーが勢ぞろいしており、まったりとにゃん太が作ったであろうチョコレートを囲んで談笑しているところだった。
「やっほー! みんなおるー?」
「あれ……マリ姐!? それにヘンリエッタさんとセララさんも」
突然の来訪者に驚いたのか、シロエはガタッと音を立てながら立ち上がった。
「おぉ! どうしたどうした! 俺は今チョコレート祭りで忙しすぎる祭りだぜっ」
それに続くように直継、アカツキ、にゃん太、ミノリとトウヤもマリエールたちの傍までやってくる。
ヘンリエッタはアカツキを見るなり目の色を変えて飛びつき、セララは控えめににゃん太の傍まで駆け寄った。
残されたマリエールはシロエ、直継、ミノリ、トウヤと必然的に関わることになるわけだが、直継を見るなりマリエールは不自然な形で目を逸らし、ぎこちない笑顔を浮かべながら手にしたチョコレートを差し出す。
「シロ坊たちの分作ったからな、持ってきてん! よかったら食べてや!」
「うわぁ……いいの?」
「ええよええよ! 自信作やで!」
「やったぜ!」
「ありがとうございます」
「ありがとう、マリ姐」
一人一人、マリエールはチョコレートを渡していく。
アカツキとにゃん太の分に関してはヘンリエッタとセララに渡してある。そちら側は本命チョコ相手だし、あまり邪魔をするのも申し訳ないと思うマリエールのいらぬ気遣いがこのような状況を作り上げていた。
受け取ったらしいアカツキとにゃん太が、少し離れた場所から礼を言っているのが聞こえてくる。
渡しているチョコレートは<三日月同盟>で配ったものと同じもので、嬉しそうに受け取るシロエたちにマリエールは先ほどと同じ満足げな笑顔が自然と浮かんだ。
「ひゃっほおおおう! マリエさんからもチョコレート祭りだぜっ!」
しかし、直継が叫んだ瞬間にマリエールの動きが止まった。
確かに先ほどまで、シロエ、ミノリ、トウヤと順調に渡していたはずだ。
なのにマリエールだけ時が止まったかのように固まってしまい、少し離れていた面々にもマリエールの異変に気付くほどで、どんどん集まってくる。
その場にいた全員が不思議そうに、それでいて心配そうな視線を向けた。
「あ、えっと……ま、マリエ、さん?」
「バカ直継が何かしたんだろ」
「俺何もしてねぇよ!? 何これ冤罪祭りっ!?」
「マリ姐どうかしたの?」
周りのやり取りも話しかけられていることも全部耳には入っている。だがその声もやがて心音でかき消されてしまった。
「あ、あ……えっと」
先程までの余裕や喜びや満足感は吹っ飛んで頭が真っ白になり、皆に配ったチョコレートとは別の、特別なチョコレートを手にして固まるマリエールは、何か言わなくてはと思いながらも上手く言葉にできずにどんどんと焦りを見せる。
その様子はマリエールらしくなく、特に直継は自分が何かしたのではないかと一緒に焦りだし、異様な空気に包まれようとしていた。
「マリエ? どうしたのです?」
ヘンリエッタに背中をさすられ、マリエールの止まった時間が動き出す。
助けを求めたくてヘンリエッタの顔を見つめるが、直継の手前、存分に泣きつくことはできないとすぐさま判断した。
「な……何でもあらへ~~~~~ん!!!! 堪忍やで~~~~!!!」
ここに逃げ場がないと理解したマリエールには、この場から離脱する選択肢以外考えられなかった。
後ろで何か叫ぶような声が聞こえてくる気がしたが、それを気にすることもなく<記録の地平線>のギルドから少しでも離れようと全速力で走り続ける。
何故こうなってしまったのか、分かってはいるけれど受け入れたくはなかった。
直継にだけ渡せなかったチョコレートを抱えたまま、限界が訪れるまで走り続ける。
その光景はまたしても異様だったが、周りなんて構う余裕もないマリエールにはどうでもいいことだった。
……そして冒頭に戻る。
他の皆には渡せたチョコレートを、直継だけには渡せなかった。
どのチョコレートよりも一生懸命頑張って、想いを込めて作ったもの。
渡したらどんな顔をするんだろうと楽しみにしながら作っていたはずなのに、結果は渡せずじまい。
皆に渡して嬉しかった気持ちがいつの間にか遠い彼方へ消えていき、マリエールの中にはぐるぐると悲しい気持ちだけが渦巻いていく。
「……普通に渡すだけで、ええやんか」
ぽつりと呟いた瞬間、浮かんだだけで零れなかった涙が零れ落ちる。
一度零れると涙は次々と溢れ出し、カッコ悪い自分が情けなくてまた泣いた。
誰かに見つからぬよう路地裏に隠れて座り込み、子どものように泣きじゃくる。
別に何か大それたことをしようと思ったわけではない。
ちょっと他の皆とは違う、特別なチョコレートを渡すだけだ。
ただそれだけのことに緊張して、普通じゃいられなくなって、頭がおかしくなっていく。
直継という存在は、マリエール自身をいとも簡単に狂わせていった。
今回のこともそうだし、特別だと意識してしまったのも直継のせい。
気づけば直継のことを考えてしまうのも、ドキドキしてしまうのも、頭の中が真っ白になってしまうのも、愛しい気持ちでいっぱいになってしまうのも……全部全部、直継のせいなのだ。
「直継やんの……アホ」
力ない言葉はまるで、愛の言葉を口にしているかのようだ。
アホと貶しているはずなのに、どうしても好きの気持ちは止まらない。
だからこそ苦しくて、マリエールはまたぽろぽろと涙をこぼしていく。
「マリエさん」
きっとこんなところ、今日という日に通り過ぎる者などいないと思っていた。
そんな最中、名前を呼ぶ声が聞こえてはっとする。
声で、呼び方で、気配で誰かが分かる。分かるからこそ顔を上げることはできなかった。
「なんで、ここに、来たん?」
顔を伏せたままマリエールは尋ね、どうして他の誰かではなくこの人が来てしまったのかと神様を恨んだ。
今の自分は確実に惨めで恥ずかしい姿でここに座り込んでいる。
チョコレートも渡せなかった意気地なしの情けない姿がここにあるだけで、それ以外何もない。
「悪いんやけど、うちのこと、少しほっといてくれへんやろか? すぐ、戻るから」
次々と心にもないことを口にしていく。
本当は見つけてくれたことを喜んでいるはずなのに、マリエールはそれでもこんな自分を見られたくない気持ちの方が強かった。
「それ、俺のチョコレート……?」
しかし、簡単に去ってくれるほど甘い人間でないことはマリエール自身も分かっていた。
しゃがみ込む気配を感じ、声が少しだけ近くに感じる。
マリエールは思わず顔を上げてしまい、意外と近くまで寄ってきていた直継と目が合う。
きっと顔は涙でぐちゃぐちゃになっているのだろう。それでも目を逸らすことはできず、そのまま見つめあう形は継続された。
「俺、ほんとに何かした? 知らない間に傷つけたなら謝るのが男ってもんだ」
わけのわからないことを口にしていると想いながら、マリエールは首をふるふると横に振る。
直継自身に非などないのだ。ましてや謝ることなどマリエールにはあっても直継にはない。
「マリエさん酷いぜ。俺にだけチョコくれないとかさ……」
責めている言葉のようで、声色はとても優しく穏やかだ。
ちらちらとマリエールの傍に置いてあるラッピングされた袋を見ながら、直継はできるだけ優しく話しかける。
「俺さ……えっと……一番、マリエさんからチョコほしかったんだぜ? だからギルドに来てくれた時はめちゃくちゃ嬉しかったのに……くれないんだもんな」
見つめたまま声も出ず、マリエールはただ耳を傾けるだけだ。
直継の頬は少しずつ赤に染まり始め、言葉からも照れているのが分かる。
余裕が少しずつ失われていくのも分かり、何故かその様子にマリエールは安心を覚えていった。
「うちの……チョコ、ほしい?」
ようやく思ったことが口にでき、ここまでくると緊張感も収まっていく。
「ほしい! おあずけ祭りはまっぴらだぜ祭りっ!」
「ほんまに?」
「ほんとほんと! もらえるまでここから絶対動かねぇ!」
にかっと笑う直継の笑顔につられ、マリエールも次第に笑顔を取り戻していく。
しおれた花に水が与えられたかのように、アキバのヒマワリは再び元気を取り戻した。
受け取ってくれるだろうか?
嫌じゃないだろうか?
口に合わなかったらどうしよう……。
様々な不安が一緒くたになって襲い掛かり、今回渡すことを躊躇わせてしまったはずなのに。
直継の優しさに惹かれ、マリエールは先ほど躊躇った行為をここで行うこととなった。
「あんな……直継やん。これ、さっき渡せんくてごめんな」
他の誰とも違う大きさとラッピング。それを直継が気づくかどうかはわからない。
だけどマリエールは、気づかれなくても渡すことができたらそれでいいと思った。
「ありがとよ! マリエさん!」
うっひょー!と叫びながら、直継はおもむろに立ち上がり、チョコレートを片手に喜びまわっている。
本当は分かっていた。
直継という人間が受け取らないわけも、嫌がるわけもないことを。
味については個々好き嫌いがあるものだから何とも言えないしても、人の好意を無碍にするような人間ではないことを、ちゃんと知っていた。
「ほな帰ろか! みんなにも謝らんと」
喜び回る直継を追うように、マリエールも立ち上がって傍に寄る。
そのチョコレートの意味が伝わるか分からないけれど、それでも『チョコレートを渡す』という目的が達成されただけでも満足だった。
「ありがとな、直継やん。その……嬉しかったで」
二人並んで歩きながら、マリエールはぽつりと呟く。
あれほど素直になることに対して躊躇いがあったはずなのに、今では何でも口にできそうなくらいには素直になれている気がした。
「元気になったからそれでよし! 俺が何かしたのかと思ったらどうしようかと思ったぜ~」
「ほんっまごめんな」
「でもよ……その」
いつものように会話を繰り返していると、直継が言葉を濁す。
マリエールは不思議に思いながら、ばつの悪そうな表情を見せる直継を見つめた。
少しの沈黙が訪れ、ドキドキと心臓が高鳴る気配に胸が苦しくなる。
直継自身も息苦しくなってきたのか、深く息を吐くと、覚悟を決めたかのように一つの問いかけをマリエールにぶつけた。
「何で、俺には……その、普通にチョコ、くれなかったんだ?」
それは、きっと永遠に封印されるであろう問いかけだと、信じて疑わなかったマリエールは驚愕一色に染まる。
しかしよく考えれば、直継にとってはあまりにも当然な悩みであると思う。
「渡しづらい理由とか、あるのかと思って」
普段の直継とは違うおどおどとした雰囲気で尋ねる姿は新鮮だったが、マリエールがそんなことを気にする余裕なんてなかった。
好奇心に満ちた瞳がマリエールの心を打ちぬく。
チョコレートを渡せばそれで解決だと思っていたこともあり、返答の言葉を持たないマリエールは口ごもることしかできなかった。
「それは……」
「それは?」
何を考えても、マリエールの脳内からは何も言葉が浮かんでこない。
「やっぱあか~~~ん! ごめんやで直継やん!!!」
今なら何でも素直になれるなんて、そんなの前言撤回させてもらう。
マリエールが選んだ選択は再び逃避することで、その場には直継だけが取り残される形となった。
本当はちゃんと言えたらよかったと思ったのだけど、ここで勝利したのは恥ずかしいという気持ちのみ。
「……本命チョコで緊張して渡せへんかったなんて、言えるわけないやん……!!!!」
走りながら小さく小さくぼそぼそ呟く。
好きなんて言えるのは、もっともっと先なんだろうな。
マリエールは途方もない未来に盛大な溜息をついた。
「……ったく、何でも分かりやすいな。あの人は」
取り残された直継は、もらったチョコレートを手に溜息交じりで立ち尽くす。
明らかにシロエたちに配られたものと違うチョコレートを取り出すと、大きなハート型で『LOVE』と書かれたチョコレートがお披露目となった。
「直球すぎだろ……これ」
熱くなっていく顔を抑えながら、一口チョコレートをかじる。
苦さなんて無縁の甘いチョコレートは、口の中を甘く満たしていくようだった。
「甘い」
ぽつりと呟きながらも、直継はチョコレートを食べることをやめない。
この喜びを独占したくて、誰かに見つかる前に食べきってしまいたかったからだ。
どんな想いでこのチョコレートを作って、ラッピングをして、手渡してくれたのだろう。
薄らと目の下に隈を作っていたマリエールのことを思い出す。
あれこれ考えながら食べていると幸福感でいっぱいになっていくようで、不思議なものだと笑みがこぼれる。
食べ終わった頃には、直継の中に一つの決意が生まれていた。
「来月、ちゃんと返事しないとな」
チョコレートに書かれた『LOVE』への返事を―――。
(2014.02.15)