いつからだろう。
特定の人物に限って嘘をついたり、平常心を保つのに必死になってしまうのは。
***
「湯神くんがさ、ずっと前に何かロシア語喋ってたじゃない?」
それは、あまりにも唐突な話題だった。
落語をキッカケに生まれた二人の時間は自然と広がりを見せ、気が付くと何でもないことでも会うようになった、とある日のこと。
こちらの気も知らず、ただ好奇心に従って向かい側に座る彼女……綿貫ちひろは話を振ってきた。
「そんなことあったか?」
本当はよく覚えているが、とぼけた振りをする。
あの時は何でもないようにさらりと口にしたが、実際彼女の前で口にした時の心の内は、絶対に誰にも見せられないほど情けないものだったに違いない。
心の中だけで冷や汗をかく。
「あった」
ここで大人しく諦めてくれたならよかったが、彼女は特に引き下がる様子もなく、自信満々に返事をした。
俺は小さくため息をつきながら、あの時口にしたロシア語をもう一度紡いでいく。
「あぁ……『トゥイ ムノガ ズナーチショ ドゥリャ ミニャ』ってやつか」
さすがに二度目だからか、あの時ほどの緊張はない。
「そう! それ。急にどんな意味だったのか気になって」
思わず眉間にしわを寄せる。
「……何故?」
考えずとも飛び出した返事が、俺の疑問のすべてだ。
さりげなく口にして以降、彼女から意味を問われることなど一切なかった。俺は心のどこかでその事実に落胆して、なかったことにしようと心の引き出しに封印したはずの出来事だった。
……それを、今更になって紐解こうなど、正気の沙汰じゃない。
などという俺の胸の内など通じることもなく、彼女は脳天気な様子だった。
「うーん……それは私にもわかんないんだけど……思いつきみたいな感じだし。で、どういう意味なの?」
本当に適当な感じが腹立つな。
「え……『今日はいい天気ですね』みたいな感じかな」
だからだろうか。
気が付くと俺は嘘の意味を教えており、感心した様子の彼女を見た瞬間、我に返って後悔した。
こんな意味のないことをするのは、確か嫌っていたはずのことなのに。
「へぇ……今度学校で言ってみようかな」
「それはやめて、絶対に」
あなたは覚えたことをすぐ使いたがる小学生ですか。
などという説教は飲み込んで、ただただ彼女に釘を刺す。
「どうして?」
「急にロシア語喋られてもびっくりされるだけでしょ」
「えー」
彼女は不満そうに俺の顔をじっと見つめる。
その視線を直視できなくなってしまったのは最近のことで、俺は彼女から視線をそらすと、小さくため息をついた。
「とにかく、そんなことはいいんだよ。あなたが試験勉強やばいって言うから、こうして集まっているっていうのに」
「うぅ……そうでした。でも、湯神くんって理系でしょ? なんで今日付き合ってくれたの? 忙しいはずなのに……」
「あなたが今どんな勉強をしているのか、気になっただけだよ」
「ふーん」
ああ、またどうでもいい嘘をついてしまった。
ただ、彼女との時間を共有したいだけというどうしようもない理由を、どうしても彼女には知られたくなくて、適当な嘘をつく。
「ま、いっか。湯神くんと会うの楽しいし」
だけど、彼女は高校時代から全然変わっていなくて、相変わらず俺のことを友達と思っているのだろう。
いつも見せる笑顔でさらりと嬉しいことを口にし、また調子を崩す羽目になった。