高熱でドタキャンした話

湯神×ちひろ


「やってしまった……」
 朝、目が覚めた時、私は身体の異常を感知していた。
 嫌な予感がして体温を測ると、絶望的な数値がたたき出される。

 三十八度五分。

 原因を探ろうと昨日の記憶を引っ張り出すが、熱で力が入らず、頭がうまく働かないことを察して断念する。
 久しぶりの高熱に大きなため息をつきながら、布団に寝転がり、携帯へと手を伸ばした。
 メール作成画面を開き、ぽちぽちと本文を打っていく。
 なんとか意識が保てている間に送らねばならない。
 メールさえ送ってしまえば、あとはどうだっていい。
 好きなだけ睡眠に費やしたっていい。
 たったひとつの使命感を胸に、私は一通のメールを送信した。


『ごめん、高熱で今日は行けなくなりました。湯神くんは楽しんできてね』


 送信先は、今日、平楽を一緒に観に行く約束をしていた湯神くん。
 こうしてドタキャンをするのは初めてのことで、チケット代を払ってもらっている手前、罪悪感がものすごいことになっていた。
 ……だけどそれ以上に、湯神くんと会えないことが、残念でならない。

「……なんでだろう。さみしいな……」

 指折り数えて、湯神くんと出かける日を楽しみにしていた自分を思い出す。
 忙しいあの人と会える貴重な日で。
 友達でも何でもないと言い張る相手だというのに、こんなに感情を揺さぶられるのはどうしてだろう。
 こんなにさみしく思ってしまうのは、きっと体調不良のせいだろう。
 何故か涙がこぼれそうになるのも、弱っているせいだ。

 刹那、手に持ったままにしていた携帯が震える。
 確認すると、湯神くんから一言『了解した』とだけ返信が着た。
「よし……任務完了だ……」
 涙が完全に流れきる前に、私は目をこすってなかったことにする。
 これで、今日の予定もなくなった。
 一日寝ていれば、そのうち治ることだろう。
 携帯を放り投げ、布団に深く潜り、必死につなぎ止めていた意識を手放した。


 ***


 次に目を醒ましたのは、家のインターホンが鳴ったことに気付いた時だった。
 どれくらい眠っていたかは分からないけれど、無理矢理身体を起こして来訪者を確認する。
「はい……」
『あ……湯神ですけど』
「……え?」
 一瞬、夢を見ているのかと思った。
 勢いよく部屋に置いている時計を見ると、既に平楽の公演が始まって十分ほど経過している。
 しかし、来訪者は会場ではなく、私の家の前にいる……?
「ちょ……ちょっと、待って……!」
 早く玄関へ向かいたい気持ちはあるものの、身体は思うように動かない。
 引きずるようにゆっくりと玄関へ向かい、扉を開く。


 そこには、夢でも幻でもない……本人がいた。


「よっ。体調悪そうだね」
「なんで……」
「あなたのことだから、めそめそしてるんじゃないかと思って」
 何気ない湯神くんの台詞にドキッとする。
 泣きそうになっていた自分を見透かされているような口ぶりで、別の意味で変な汗をかきそうだ。
「というのは冗談で。何というか、ご飯とかろくに食べずに野垂れ死にそうな気がしたから」
 それはそれで現実的な発言でドキッとする。
 熱でボーッとする状態で湯神くんを観察すると、左手にスーパーの袋のようなものが目に入る。
「あぁ、これか? 食べ物とか飲み物とか……あと高熱って言ってたから、解熱効果がありそうな市販の薬とか……」
 私の視線に気付いて説明してくれるのはいいが、今はそんなことが聴きたいわけじゃない。

「いや……平楽は……」
 誰よりも自身を優先する湯神くんが、平楽ではなく私を選ぶなんて考えられない。
「チケットだって……湯神くんは、二人分払ってて……」
 言葉を紡ぐ度に、私の涙腺が刺激されていく。
 なんでという気持ちと、罪悪感と、熱でうまく考えることができない自分への苛立ち。
 そんな感情とは裏腹に、湯神くんに会えてうれしい気持ちと、安心感も同時に存在していて、私の中はいつにも増してごちゃごちゃしていた。
「とにかく、病人なんだから細かいことは後で考えろ。とりあえず何か口に入れて、薬飲んで寝てくれ。話はそれからだ」
 しかし、うだうだしている私をバッサリ切り捨てて、湯神くんは熱でふらつく私の身体をがっしりと支えながら部屋に入っていく。

 触れあった部分が妙に熱くて、また熱が上がってしまいそうだったけれど、そんな感覚はあっという間に様々な熱で溶けていった。


 ***


「ちょっとこれを飲んで待っててくれ」
 スポーツドリンクを手渡され、言われるがままぐびぐびと流し込んでいく。
 よく考えると、朝から何も口にしていなかった。
 家の中もきっと特に何もなく、常備薬すらないだろう。
 風邪薬は種類が多いから、ひいてから買うことが多かった。
 こうして突発的に体調を崩すのは久しぶりのことで、湯神くんがお見舞いに来てくれてよかったと心の底から思う。


「とりあえず、いろいろ買ってきた。今のあなたの調子に合わせて選ぶといい」
 何やら両手いっぱいに抱えて私の傍にやってきた湯神くんは、わざわざ用意してくれた食べ物を並べていく。
 バナナ、桃ゼリー、ヨーグルト、レトルトのおかゆ、カップスープなど……。
 おそらく数日は外に出なくても生きていけるだろう量で、私はとても驚いた。
「こんなにいろいろ……ありがとう……」
「お礼はいいから。どれにする?」
「じゃあ……バナナ食べる」
「わかった」
 食べやすく皮をむいて手渡され、バナナを受け取って食べる。
 おそらく、生きてきた中で一番おいしいバナナに違いない。
 からっぽの胃が徐々に満たされていくと、とうとう涙腺が崩壊してしまう。
 ぼろぼろに涙がこぼれていって、手に持ったバナナすらぼやけて見えない。

「……あれ……」
「泣くほどうまいのか……そのバナナ。あなたの家の近くのスーパーで買ったから、いつでも食べられてよかったな」

 そういうことじゃない。
 たぶん、湯神くんだってそんなこと分かっているだろう。
 だけど安心して泣く私のことを何も問わず、絶妙に受け流してくれる。
「それを食べたら、薬を飲んでゆっくり寝てくれ。念のため、明日は病院に行った方がいい。辛いなら、日曜でも開いてる病院を探すけど……」
 ぺらぺらと何かを話し続ける湯神くんだったけれど、私はずっと頭がボーッとしていて、だんだん声が遠ざかっていくような気がした。
 せっかく近くにいるのに、遠くに行ってしまうような気がして、本能的に手を伸ばす。
 伸ばした手は、意外と近くにいた湯神くんの腕を掴む。あまり力は入らないが、それでも、頼りない力を使ってなんとか掴む。

「ごめん……湯神くんが、遠くに行っちゃう気がして……」
 自分でも何を言っているのか分からない。
「……まだここに、いてくれる……?」
 言っていいことなのか、よくないことなのか、区別もつかない。

 暫し無言の状態が続き、視界は涙でぼやけたまま。
 しかし、ぼやけていた視界は、何かが涙を拭ったおかげでクリアになった。
 それが湯神くんの指だったことに気が付いたのは、視界良好となった片方の目のおかげである。

「大丈夫だ。ここにいるから。あなた、本格的に弱ってるし、ちゃんと眠りにつくまではここにいるよ」

 なんと言われているのか、理解するには今の私に難しいと素直に思う。
 普段言われ慣れない言葉の連続で、頭がショートしているのかもしれない。
 湯神くんに手渡された薬を飲み、そのまま布団に入る。
 傍に座った湯神くんは、何故か唐突に私の髪を撫でた。
 あまりにも自然と行うものだから、最初は普通のことをしたのだとばかり脳が判断していたけれど、ふんわりと、それは普通じゃないと言う自分も存在している。

 ああ、もうこれ以上は……。

 私はもう限界だったようで、あっという間に意識を失っていった。



 意識を失う直前、湯神くんが何か言っていた気がしたけれど、この時の私には届いていない。


 ***


 次に目が醒めると、すっかり辺りは暗くなっていた。
 身体もどこか楽に感じ、薬のおかげかもしれないと思う。
「湯神くんは……帰ったかな」
 辺りを見渡しながら、小さく呟く。
 いや、むしろあれは夢だったのではないだろうか。
 薬だって、飲んだつもりだったけれど、本当はたくさん寝て下がっただけかもしれない。
 ひとまず部屋の明かりを付けると、部屋の隅に大量の食べ物と飲み物……そして、薬が置いてあった。
「……いや、夢じゃないよこれ」
 桃ゼリー、ヨーグルト、レトルトのおかゆ、カップスープ……確かに私はこれを見た。
 飲んだ薬も間違いなくある。

 何より、湯神くんがいたんだという痕跡が、冷蔵庫にあったのだ。


『体調管理を怠らないように。次回の埋め合わせに期待!  湯神』

 メモの傍には、次回のチケットがあった。


「これは……頑張って埋め合わせしなきゃだね」


 自然と笑みがこぼれ、身体の調子が落ち着いたおかげで、気持ちも前向きになっている。
 気が付くと次の予定が待ち遠しくなり、浮かれてしまう単純な私であった。






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自分で書いておいてなんなんですけど、
これで友達じゃないし付き合ってもないのか……