嗚呼、愛おしい

湯神×ちひろ


 ひとりでぼんやりテレビを観ていたら、不意にアンニュイな気分になった。
 アンニュイってどんな意味なんだろうと携帯で検索しようとして、すぐにやめてしまう。安易に意味も知らない表現を使った自分にため息をつきながら、ごろんとだらしなく床に寝転がった。
 キッカケも理由もまったくわからないけれど、ふと、昔味わった寂しさや悲しさ、強がって我慢したこと、どうしようもなく立ちふさがる理不尽に何度もぶつかったことを思い出したのだ。
 私はすっかり忘れていた。
 あの人に出会って、これまで経験のない出来事や感情に押し寄せられて、ぐるぐると悩んだり、心が揺さぶられたり、喜怒哀楽に振り回されて、情緒不安定になって、落ち着かない日々があって。
 私はそんな充実した日々に夢中で、すっかり忘れていた。

 ようやく慣れ親しんだ場所を離れることになった寂しさとか。
 仲が良かった友達との別れに涙したこととか。
 新天地へ向かうことへの不安に押しつぶされそうになったこととか。

 ああ、そんな日もあったな。

 天井を見つめながら、昔の自分を懐かしむ。

 そうしているうちに、なんとなく、あの人の声が聴きたくなって。先ほど適当に放り投げた携帯を手繰り寄せ、アドレス帳を開く。
 ……私の無駄話に付き合ってくれるかはわからないけれど。
 もしかしたら、『もしもし』という言葉を聴くだけで満足するかもしれない。
 なんて理想を掲げながら、私はあの人へ電話をかけた。


『もしもし』
 湯神くんへの通話は無事三コール目で繋がったが、残念ながら第一声で満足することはなかった。
 小さく苦笑しながら、一体どんな顔でこの電話に出たのだろうという疑問がわく。
『急にどうしたんだ? 何か用か?』
 至極真っ当な問いが投げられ、私は何から話そうかと言葉に悩んだ。
 素直に言葉にするなら『湯神くんの声が聴きたくなった』になるのだけど、それはまるで恋人に投げかけるもののように感じて、今更ながら言いづらい。
 今、彼が納得する言葉が何一つとして浮かばなかった。
「えっと……」
『ん?』
「なんとなく」
『え?』
「なんとなく、かけてみた……」
 結局、歯切れが悪く、無意味な言葉の羅列で終わる。まるで、性質の悪い悪戯電話のようだ。
『それは謎かけか何かか?』
 まだ私の言葉の意味に何かを見出そうとする湯神くんに、不覚にも笑ってしまいそうになった。いや、困らせているのは自分なのだから、ここで笑うのは失礼にも程があるだろう。
「用事がないと電話しちゃいけない?」
『いけないわけでもないが……何かあるから電話をかけたんだろう?』
「う……まあ、そうだけど……」
 話がだんだんとループにはまっており、このままではいけないと身構える自分が姿を見せた。
 現状が続くなら、きっと遠くない未来に通話は途切れてしまうだろう。
『わかった。三十分くらい時間をくれないか』
「え?」
『またかける』
 それだけを言うと、湯神くんはあっさりと通話を切ってしまった。
 遠くない未来は早速訪れてしまい、私はぽかんとしながら天井を見つめる。
 予想外だったことは、また通話ができる約束があること。
「もしかして忙しかったのかな……」
 バイトの合間だったり、電車に乗っていたり、手が離せない用事があったのかもしれない。
 もしそうだったら申し訳ないな、なんて罪悪感に浸る。
 だんだんと後悔も押し寄せ、通話なんかするんじゃなかった、なんて思う自分も登場した。
「私のくだらぬ電話で、迷惑かけちゃったかな……」
 近くに置いているクッションをぎゅっと抱きしめながら、またひとつため息をつく。
 今の私にできることは、湯神くんからの連絡を待つことくらいだった。


***


 三十分後、その電話は予告通りにかかってきた。
『もしもし、湯神だけど。今から外に出られるか?』
 そして、第一声に私は驚きを隠せないのであった。
「え?」
『夜遅いし、もう風呂も済ませているかもしれないから、無理にとは言わないが……』
「ちょ、ちょっと待って」
 混乱する頭が絞り出した疑問は、バカみたいだと自分でも思うようなもの。
「湯神くん……今、どこにいるの?」
 なんとなくかけた電話で、わざわざ私に会いに来てくれるなんて、本当に恋人みたいだ。
 だから、そんな嬉しい展開が信じられない。
 本当は別の解があって、私の勘違いや思い込みで恥ずかしい思いをする展開が正解な気がするのに、そこに辿り着く方が非現実っぽく感じる。
『今? あなたの家の近く』
「え……なんで」
『このままじゃ埒が明かなさそうだったから。通話代もかかるし』
「湯神くんは通話代かからないじゃん……」
『とにかく。外に出られるの? 出られないの?』
「五分待って」
 それだけ伝えて電話を切ると、慌てて外に出る準備を始めた。


***


 家を出てそう遠くない場所に、湯神くんがいた。
「よっ」
 本物の湯神くんだ。
 当然のことなのに、私は改めてそんなことを考えてしまう。
「わざわざごめんね」
「俺が勝手に来ただけだから気にしなくていいよ。で、何?」
 私の謝罪など軽くあしらわれ、早々に本題に入ろうとしている湯神くん。
 正直なところ、大した事情でもないから話すのもためらわれる。
「あ、うち来る? お茶出すよ」
 せっかく会いに来てくれたというのに、立ち話というのも忍びない。
 この後のことをぐるぐると考えながら提案してみると、何故か大きくため息をつかれた。
「あのさ……そういうこと、俺以外の異性に言ったことないよね?」
「え? ないけど……というか、私の家を知ってる異性なんて湯神くんくらいだけど」
「そう……なら、いいけど」
 何がいいのかよく分からないまま、沈黙が舞い降りた。
 結局立ち話は継続するようで、どうしたものかと頭を抱える。
 かといって、このまま時間を無駄に浪費するのも申し訳ないと思う。
「あのね、とりとめもない話というか、山とか落ちとかないんだけど」
「いいよ、なんでも」
 グダグダとした前置きにも動じない湯神くんに、私は白旗を上げた。
 どうでもいい、終わったこと。ただ、思い出したことを、素直に話すことにした。

「あのね……私、転校が多かったの。入学した学校で卒業したことがないくらいで」
「ああ」
「せっかく慣れた場所や仲良くなった友達ともすぐ別れなきゃいけなくなって、だけどそれに抗えるほどの力なんて子どもだった私には何もなくて」
「そうだろうな」
「そんな苦い思い出をふと思い出したら……湯神くんと話したくなって」

 立ち話は、ここで途切れる。
 何故そこで湯神くんに繋がるのか、自分でもうまく理解できていなかったからだ。
「俺とどんな話がしたいんだ?」
 その問いを口にするのは正しいと思うのに、回答は用意されていない。
 話を聞いてほしかったのか、何か話したかったのか、それさえも曖昧だ。
 ただ、湯神くんを思い出した。
 湯神くんの声が聴きたくなった。話したいと思った。
 だけど、その理由だけが分からない。
 まさか会えるなんて思ってもみなくて、今の状況に喜びつつも戸惑っていて。
「いや……何が話したいってわけじゃないんだけど……その、湯神くんと出会ってから、そんな理不尽や辛かったことも忘れちゃってたなって……。今もこうして会えるくらいで、湯神くんとの出会いに感謝……的な?」
 自分でも何が言いたいのか分からなくなってきた。
 ただ、湯神くんを思い出して、声が聴きたくなった。
 本当になんとなくの感覚で、自然とそう思ってしまっただけの話で。
「だから言ったじゃん。山も落ちもない話だって」
 笑ってごまかしながら私がそう言うと、湯神くんはどこか照れたように後頭部をガシガシと掻いた。
「あぁ……まあ、そういう日もあるよな」
「湯神くんもあるの?」
「いや、ないけど」
「ないんだ」
 よく分からない会話のキャッチボールに苦笑しつつ、それでも、この時間をいとおしく思えてしまう自身に驚く。

 ほかの友達と呼べる誰かよりも、友達じゃないと言われている湯神くんを選んでしまうのは……。

「せっかく来てくれたのに、とりとめもない感じでごめんね」
 いろいろなものをごまかすように、私は思い浮かんだ言葉を必死に手繰り寄せて紡いでいく。
「俺が勝手に来ただけだからな。帰りにコンビニで支払いをするついでということで」
 水道代らしき支払いの用紙を私に見せびらかすと、いつも見せてくれる笑顔が浮かんでくる。

(ああ、もうなんか……すごく、変な気分だ……)

 決定的な表現を「変」とごまかす。
 ごまかしている間に無言の時間が訪れており、気が付いた時にはこの時間を終わらせる方法を忘れてしまっていた。

(ずっとこの時間が続けばいいのに……)

 のんきなことを考えながら湯神くんを見つめると、ばっちり目が合って体温が上昇していく。

「……ぐしゅん!」
 その時だった。
 目の前の湯神くんのくしゃみで、すべてがはじけ飛んだような気がした。
「あ、ごめん。もう遅いし、そろそろ解散しよう」
 すっかり見失っていた別れの言葉もあっさりと声になって飛び出していき、湯神くんもポケットから取り出したティッシュで鼻をかみながら了承した。
「また次の平楽で会おう」
「うん。今日はありがとうね」
「じゃあ」
「おやすみ~」
 方向性が決まればあっという間で、私と湯神くんの時間はあっさりと終焉を迎えた。

「……まあ、いっか」
 気が付くと昔のことを思い出して変な気分になっていた自分は消失し、湯神くんで上書きされている。
 電話に出てくれるだけではなく、わざわざ会いに来てくれた。
 その事実が嬉しくて、湯神くんに抱いた「変」な気持ちを追求することもなく、ただただ浮かれる私。

 湯神くんとはまた約束がある。
 またの約束を胸に、私も急ぎ足で家に入ったのだった。





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転校生だったことを思い出して書いたお話でした。(お題64より)