初夜と聞くと、いかがわしい想像に走る人も多いだろう。
私が勝手にそう思っているだけなので、世の中がどうなっているかは実のところよく知らない。
何故そんなことを考えているのかというと、ある意味で今日は初夜だからだ。
紆余曲折を経て、私と湯神くんは一つ屋根の下に落ち着いた。恋人同士になり、一緒に暮らす家が決まり、引越しの日程が決まって、引越し業者の人たちが帰るまでの期間は、とても多忙な日々だったと思う。
それでも充実しているように思えるのは、この日が待ち遠しかったからだろう。
マンションの三階、角部屋。最寄駅から少し距離があるけれど、家賃を考えると諦めるしかなかった。スーパーやコンビニがそれなりに近いので、買い物には困らない。間取りは2LDK。いくら恋人同士になったとはいえ、ある程度パーソナルスペースは必要だろうと、個々の部屋が確保できる間取りを選んだ。リビングその他の場所は共用。
一応、当番制でごみ捨てや家事分担もしようと事前に決めてある。湯神くんが気合を入れて表を作ってきてくれた。しばらく運用してみて、調整していこうと話していた。
家族以外の人と二人で暮らすなんて未経験のことで、初めは友達とお泊り会をするようでわくわくしていた。
……それが今では、緊張ですっかり目が冴えている。
日中の引越し作業で身体がへとへとのはずなのに、一向に眠気が訪れない。
簡易的にそれぞれの部屋で寝床を確保し、「おやすみ」と言葉を交わして二時間が経過していた。
「部屋が変わって寝付けないんだ!」
そう言い聞かせていたのも一時間前の話。
今はただ、隣の部屋で寝ている湯神くんに意識が奪われている。
初めて一つ屋根の下で夜を迎えたのだ。
しかも、これでも私たちは恋人同士。キスはおろか、ろくに手も繋げていないとはいえ、この先一生何もないわけではない……はず。
「……まあ、何もなかったんだけど」
小さく呟いて、ため息をつく。
そう……何もなかったのだ。
おやすみと一言告げると、さっさと自室に入ってしまったのだ。
「別に、期待とか、しているわけでは……」
言い訳じみた言葉は、何度も私の口から飛び出しては静寂に消えていく。
一時間も本音を否定していると、さすがに私も虚しくなってきた。
ああ、もうぶっちゃけてしまうと、私は期待していた。
大人の階段的なものを上ってしまうものだと思っていた。
ついつい、お気に入りの下着を身に着けてしまった。
何度も初体験の情報をインターネットで検索したりもした。
まあ、ろくに手も繋げない初心者カップルがいきなり辿り着ける領域ではないにしても、少しくらいは、何かあってもいいのではないかともやもやした自分が存在している。
「ん~もうダメだ」
いくら考えたところで、現状は何も変わらない。
眠気もこないし、時間だけが過ぎていく。
私は気分を変えるため、布団から出てゆっくりと立ち上がった。
水でも飲み、少しテレビでも観て、眠気がやってきたら布団に戻ろう。
一時的にでもいいから、自分の中から湯神くんを追い出す必要があった。
「……今頃のんきに寝てるのかな」
耳を澄ませても、物音ひとつ聞こえやしない。言葉にしてみると、妙に腹立たしい気持ちが湧き上がってくる。
「寝顔でも見に行こうかな……」
リビングへ繋がる扉に手を伸ばした瞬間、小さく呟いて……大きく首を振った。
その思考は、まるで寝込みを襲う人のようで躊躇われる。それに、余計に眠れなくなりそうだ。
当初の目的を思い出しながら、扉を開き、真っ暗なリビングに足を踏み入れる。
「……え?」
それは、あまりにもできすぎた偶然だった。
リビングに入ったと同時に、辺りが明るくなったのだ。
照明のスイッチは、私の部屋から距離がある。人の気配を察知して勝手に明るくするハイテク機能は備わっていない。
では、誰が部屋を明るくしたのか。
私でないとするなら、残された可能性は一つしかない。
「あなたも眠れないのか……?」
寝間着姿の湯神くんが、驚いた表情を浮かべて口を開いた。
「あなたもって……湯神くんも?」
「まあ……部屋が変わって落ち着かないんだよ」
ふいっと私から目をそらして、言い訳じみた口調で一時間前の私のようなことをぼやく。
まさかこんな時間に鉢合わせるなんて予想外すぎて、私の本来の目的などどうでもよくなった。
自身から湯神くんを追い出すつもりが、本人が傍にいるのだからどう頑張っても意識せざるを得ない。
「……」
「……」
おそらく、湯神くんも私が起きてくるとは思ってもみなかったのだろう。互いに言葉を失い、静寂が舞い降りる。
なんとか話題を振り絞ろうと試みるも、思い出すのは悶々と欲求不満に苛まれていた少し前の自分。
意識すると余計に気になって、心臓が破裂しそうなくらいの心音を感じる。
「とりあえず……座るか」
立ち尽くしたままであることを言われてから思い出して、二人でその場に座り込む。
しかし、その後のことは全くノープランである。
湯神くんも黙り込んでしまい、またしても気まずい空気が私たちの間に流れ込んでいた。
(どうしよう……)
深夜にリビングに集まってしまった私たち。
ちらりと湯神くんへ視線を移すと、難しい顔をして虚空を見つめている。
「このままじゃ埒が明かない!」
しびれを切らしたのか、叫びながら湯神くんは立ち上がった。
「ちょっと待ってろ!」
それだけを言うと、そのまま自室へ駈け込んでいく。
「え……?」
すっかり置いてけぼりの私は、ぽかんとしたままその背中を見守ることしかできなかった。
しかし、一人になった時間はそれほど長くなく、戻ってきた湯神くんは何かを抱えている。
「とりあえず眠くなるまで、これをやろう」
見せてくれたパッケージは、緑色の盤面に白と黒の碁石が写っている……まさかのオセロ。
意表を突かれ、口を開けて再び言葉を失った。
「引越しの荷物に紛れていたんだ」
「どうやって紛れるの……?」
「多分、去年商店街で引いた福引の景品だな。確か三等の米を狙っていたのに、どうでもいいものを引いたんだ」
その理由もどうでもいい内に入る。けれど、尋ねた手前そんなことは言えない。
恋人同士が深夜にリビングに鉢合わせて……期待に胸を膨らませようとして、期待はあっさりと崩れていく。
「じ、じゃあ……やろうか」
この状況を切り抜ける手段が思いつかないと白旗を上げた私は、ひきつった笑顔で提案を受け入れた。
***
「もう一回だ!」
あれから一時間ほどが経過していた。
「はいはい、もう一回ね」
意外と白熱した戦いを繰り広げ、気まずい空気など微塵にも感じさせない盛り上がりを見せていた。
負ければもう一回と言い、成績は二対二の同点。
「こんなにオセロやったの久しぶりかも」
これまでの人生を振り返ると、最後にやったのはいつだったかさえも思い出せない。
恋人同士らしいやり取りにはもう期待できないと分かると、私も自然と湯神くんとの時間を楽しめるようになっていた。
欲張っちゃいけない。
こうして深夜にオセロを楽しめるシチュエーションが訪れるなんて、湯神くんと出会った頃を思えば想像もできない展開なのだ。
あのおひとり様至上主義の湯神くんが、私と遊んでくれている。それはものすごいことなのだ。
(初心忘れるべからずだ……)
次のゲームを始める準備をしながら、改めて思う。
おそらく、恋人同士らしいことは今後いくらでもできるチャンスはあるはずなのだ。
私と湯神くんがただのクラスメートから特別な関係になるまでの道のりのように。遠回りはしても、近道なんてきっと存在しない。
そう言い聞かせて、私は無理やり納得することにした。
「次で決着をつけるぞ」
意気込んでいる湯神くんがおかしくなって、私は小さく笑う。
「じゃあ、何か賭ける?」
「ああ、それもいいな」
「負けた人は勝った人の言うことを聞くとか?」
「無理難題でなければいいけど……先にやってほしいことを宣言しておこう。できないことなら却下しないといけない」
「なるほど……」
「じゃあ、あなたから言って」
ノリで提案したことがすんなりと通ったはいいけど、あっという間に窮地に追い込まれた。
「湯神くんにしてほしいことか……」
肝心の、してほしいことが思いつかない。
正確には思いつきはするが、口にするのは憚られるものしか思いつかなかった。
(うう……なんで私は思い出すかなぁ……)
心の中で恨み言を思い浮かべる理由は、せっかく忘れかけた自身の欲求不満的なものを思い出したせいだ。
もし私が勝ったら……否が応でも恋人らしい何かを命令できる。
急に恥ずかしくなって、顔が火照っていくのを感じる。見つめあった視線を無理やり解いて、なんと言おうか必死で言葉を探す。
「百万円渡すとかは無理だからな」
「それはわかってるよ!」
私だってそんなこと言われたら困るし、オセロで賭けるものではない。
「えっと……」
もう、ここまで来てしまったら、深夜のテンションに身を任せるしかない。
私は半ば自棄になりながら、覚悟を決める。
「は……ハグ……してください……」
「……は?」
自分でも驚く言葉が飛び出した。もちろん、湯神くんも理解できないと言いたげな声が漏れだしている。
「えっと……日本語で言ってくれないか」
「抱擁」
「抱擁……とは……」
「わ、私を……こう、ぎゅっと抱きしめて欲しいというか……」
手もろくに繋げないくせに、何を言っているのだろう。
謎の会話が繰り広げられ、混乱の渦に飲まれていく。
(確かに、抱きしめて欲しいけど……湯神くんに引かれたかな……)
恐る恐る真正面に座る湯神くんが見えるくらい顔を上げる。
「えっと……じゃあ」
刹那、湯神くんがゆっくりと私に近づいてきた。
傍に座ると腕が伸び、湯神くんの手が私の身体に触れる。
そして、そのまま抱き寄せてしまった。
「こうでいいか?」
至近距離から聞こえてくる声に驚きはするが、現実味がない。
「えっと……」
あまりにも自然に、あっさりと叶えられてしまった私の願いに戸惑いを隠せない。
「まだ勝負に勝ってないけど……」
もう、勝負どころの話ではないのだけど。
「いや……別に勝負しなくてもできることかと思って……」
未だに抱きしめられたままで、伝わってくる湯神くんの体温と心音の心地よさにとろけてしまいそうだ。
何もなかったことに不満だったのも、恥ずかしさも、オセロも、もうどうだっていいと思ってしまう。
「ありがとう」
私は湯神くんの背に腕を回す。湯神くんが抱きしめる力を強めると、私も対抗するように力を込めた。
「でも、ここまでだ」
夢が覚めたように、唐突にその時間は終わりを迎える。
不思議に思った私は、理由を尋ねるように首を傾げた。
「これ以上は……なんかよくない気がする」
「よくない?」
「刺激が強い……」
「刺激?」
「まだ、準備が……」
「準備?」
「……あなたはのんきでいいね」
「えぇ!?」
おかしな話の流れに変な対抗心が芽生え、ほんの少しのイラ立ちが混ざっていった。
「のんきなのは湯神くんでしょ? 私がどんな想いで……ハグを望んだか」
本当ならその先だって考えないこともなかったが、怖気づいたことは黙っておく。
「それは予想外だった。あんまりがっつくと引かれるかと思って様子を見ていたからな」
「えぇ~言ってよ~」
一応、恋人同士であることは意識しているらしい。
呆れつつも照れが混じる湯神くんの顔を見ながら、私は一人でぐるぐる考えていたことがばからしく感じた。
「じゃあここで意思疎通をきちんと行っておくか。あなたはどこまでならOKなんだ?」
「その質問ずるい!」
物を考えるより先に、感情がストレートに声になった。
どこまでなんて言語化するのが難しいというのもあるけれど、わざわざ言わなくても通じて欲しかった。
「湯神くんなら……何されてもいいよ……」
とんでもないことを口にした気がするが、それも些細なことだった。
それよりも、私がOKで湯神くんがNGなことの方が重要だ。
「じゃあ、あなたが寝ている間に、顔に落書きしても?」
緊張の面持ちで湯神くんの返事を待っていたというのに、ろくでもない返しをする湯神くん。
「そういうことじゃない!」
「あなたが楽しみに買ってきたお菓子食べてもいいか?」
「そうでもなくて!」
本気なのかわざとなのか、湯神くんの本心が見えない。
「悪い……そういうこと言われると、もう遠慮なんかできなくなりそうで……」
しかし、湧き上がる不満が一瞬にして消えていく。
おそらく、照れ隠しだったのだろう。
真っ赤な耳たぶを発見して、心が落ち着いていくのがはっきりと分かった。
「……でも、今日は何もするつもりはないから。そのうちな」
「そのうち? 何?」
「……その時のお楽しみで」
先ほどの仕返しのように質問をぶつけてみたけれど、うまく避けられてしまった。
湯神くんはこれ以上の追及を逃れるようにオセロを片付け始めている。
「勝負は?」
「引き分けだ」
あれほど盛り上がっていたオセロは呆気なく終了を迎え、すべてを片付けた湯神くんはおもむろに立ち上がる。
「今度こそ寝る。あなたも夜更かしは程々にな。おやすみ」
背を向けたまま、私をリビングに残して湯神くんは自室へと戻っていく。
私がおやすみを返す間も与えられず、突然に一人の時間が訪れた。
「……私も寝ようかな」
果たしてこれから眠れるのかさえも分からない。
眠気だって未だに仕事をする気配がないし、一人になった瞬間、湯神くんに抱きしめられた感触を思い出して顔が熱くなるだけだ。
でも、きっと今日みたいな日はこれから何度もやってくることだろう。
もしかしたら、抱きしめるだけじゃ済まない時だってあるはずだ。
私たちの初夜は、オセロで盛り上がることくらいで。
だけど、手も繋げなかった私たちが一歩踏み出せたのは間違いのない現実で……その幸福感を胸に自室へ戻る私なのでした。
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1日目だけ同人誌なのもあれなので、サイトに載せました。
オセロさせることができてよかったです。
(同人誌「同居にまつわるエトセトラ」設定のアフターストーリー/恋人同士/同居)