一緒に暮らし始めて、三日目の夜。
偶然にも夜空には三日月が姿を見せている。
三日目と三日月。文字にするとよく似ているな、なんて心の中で思うと、自然と笑みがこぼれた。
夕飯の片づけを終え、湯神くんは先にお風呂を使っている。
私はというと、リビングの窓からぼんやりと三日月を眺めていた。
今日は天気がよかったから、はっきりとその形が分かる。
「不思議な状況だなぁ……」
ぼんやりしているから、私の独り言に大した意味はない。
ただ、なんとなくしみじみしているだけだ。
それは付き合うことになってから今まで、何十回も考えたこと。
あの湯神くんと恋人同士になるだけでなく、一緒に住んでいるなんて……。
今、こうして湯神くんがお風呂から上がることを待っていることも、二人で肩を並んで料理をしたことも。「おはよう」だとか、「ただいま」だとか、「おやすみ」だとか……そんな言葉を毎日交わすことなることも。
もう少し慣れたら、きっとそれは特別でなく当たり前になっていく。
それはつまり、当たり前が特別に変わったら……私は大きな悲しみに直面することを意味していて。
「いやいや……それは考えが飛躍してるって……」
行きすぎた思考回路に思わず自分へツッコんだ。
首を大きく横に振って、浮かび始めた負の感情を振り払う。
だってまだ、恋人同士になって日は浅い。私は付き合うことについて知らないことだらけだ。
今分かっていることは、湯神くんが好きなことと、自身が思っていたよりも助兵衛であること。
触れたいとか、抱きしめてもらいたいとか……たぶん、それくらい。
……というのはただの言い訳で。
いろんな言葉を並べ立てても、結論はシンプルだ。
私は単純に、お別れが想像できないだけだった。
高校を卒業して、偶然再会する以上に離れ離れになるなんてことが、起こるわけがないと思っている。
……いや、起こって欲しくないが、正しい表現かもしれない。
月を眺めながら考え事をするなんて、慣れていないせいだからだろうか。
何故だか目頭が熱くなる。
「不思議な状況だなぁ……」
震える声で、私は小さく呟いた。
今なら、少女漫画の主人公の気持ちが分かるような気がする。
幸せすぎて不安に思う日が来るなんて……。
「何やってるんだ?」
声を掛けられるまで、近づいてくる気配に気が付きもしなかった。
目にうっすら涙を浮かべていたことも忘れて振り返ると、お風呂上がりの湯神くんと目が合った。
まだ濡れている髪をごしごしとタオルで拭いていたけれど、私の顔を見て驚いた湯神くんは、少し慌てて湿ったタオルで私の顔を拭いた。
「俺、何かしたか?」
「え? なんで?」
「泣く理由が思いつかなかったから……」
ふわふわとした会話に、なんと説明しようか悩む。
ごしごしと拭われた涙は湯神くんのタオルに吸い込まれて、一緒にバカなことを考えていた自分も吸い込まれていくようだった。
言ったら笑われるだろうか。
それとも、呆れられるだろうか。
ひとつだけ分かることは、ここでごまかしてはいけないこと。
きっと、私が湯神くんだったら、泣いている理由が知りたいと思う。
私たちには言葉が必要で、言葉が足りないと通じ合えないことがたくさんある。
それを疎かにすればするほど、迎えたくない未来に近づいてしまう気がするから……。
「今が幸せで、感極まって泣いちゃった」
ちょっとだけ照れ隠しで、へらへらと笑って見せた。
言葉にしてみると、なんとも恥ずかしい。
月を見ながら感傷に浸るなんて、初めてではないだろうか。
……そんなことを考えている最中だった。
あまりにも驚きすぎて、思考が停止してしまった。
だけど、記憶喪失になったわけではない。
一連の流れを、ちゃんと覚えている。
湯神くんが近づいてきて、濡れた髪の雫が頬に飛んできた。
思わず目を閉じた隙に……柔らかな感触が私に降りかかったのだ。
「え……なんで?」
一瞬か永遠か曖昧な時間、初めて触れ合った唇に手を当てながら、私は尋ねる。
今、そんな空気ではなかったはずだ。
私のこっぱずかしい涙と言動に、笑われたり呆れられたりするはずだった。
決して……決して、ひっそりと望んでいた湯神くんとのファーストキスの儀式を行う時ではない。
私が動揺していると、顔を赤く染めた湯神くんが居心地の悪そうな様子で答えた。
「なんか……したくなったから」
「えっ、どの辺が?」
「それが分かったら苦労はしない」
逃げるように背を向けた湯神くんは、再びごしごしとタオルで髪を拭きながら離れていく。
会話はそこで途切れ、気が付くと涙も止まっていた。
思考が停止して、呆気に取られているうちに感傷的だった自身さえも見失う。
(湯神くんも、キスしたいって思うことがあるのか……)
次に浮かんだのは、口にすれば絶対に怒られそうな、失礼なセリフで。
「ねぇ~湯神くん。なんでキスしたの~ねぇ~」
「な、なんだ急に!」
洗面台でドライヤーのコンセントをさしていた湯神くんにまとわりつきながら、好奇心に支配された私は何度も尋ねる。
「急じゃないよ~湯神くんのことは何でも知りたいから聞いてるんだよ~」
「さっきとキャラが違いすぎるだろ! 情緒不安定か?」
「情緒不安定でいいから、なんでキスしたくなったか教えてよ~」
「知らん!」
「うぎゃっ!」
あまりにも鬱陶しかったらしい。
湯神くんは手に持っていたドライヤーの電源を入れると、思いっきり私の顔面へ温風をぶつけた。近距離からの攻撃に思わず後ずさる。
その隙に、目にも止まらぬ速さでコンセントを引っこ抜いた湯神くんは、ドライヤーと共に自室へと逃げていった。
ぱたんと閉じられた扉を見つめながら、私は小さくため息をつき、
「残念」
独り言を吐いた。
もう一度リビングの窓の傍に寄り、三日月を見つめる。
だけどもう、感傷的な自分が姿を現すことはない。
脳裏に焼き付いて離れない照れ顔を思い出して、にやりと笑っていた。
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こう、なんか尊くて思わずキスしちゃうとか……いいなって思うんですよね……
(同人誌「同居にまつわるエトセトラ」設定のアフターストーリー/恋人同士/同居)