自分が好いている人間の涙は、できるなら見たくないと思う。
これまでの人生で考えたこともないような議題だが、嫌でも考えさせられる出来事が起こってしまったのだから仕方がない。
たとえ、涙の理由が負の感情でなかったとしても、俺の正常さを根こそぎ奪い取ってしまうには十分だった。
ただ泣いているだけでは、どこか痛むのか、俺が何か悪いことをしたのか、別の理由で泣いているのか……判別がつかない。
昨日の俺には冷静さが足りなかった。
足りないなんてものではない。
もしも、昨晩の俺に冷静さがあったのなら……あんなタイミングでキスなどしない。
「……ファーストキスだぞ……?」
朝、目が覚めてからずっと、俺の脳内で昨晩の出来事が鮮明に再現される。
真っ白な天井に吊るされた電気をじっと見つめながら、涙を浮かべつつ微笑んだ彼女の表情が浮かんでくるような気がした。
「なんであんなことをっ!!」
羞恥に耐え切れず、思わず布団の上でブリッジを決めた。
ついでに壁の近くまで移動して逆立ちもした。
何年ぶりだろう……逆立ちなんて……。
なんとか思考を別の方向へ持っていきたかったが、昨晩の出来事を振り払うには威力が足りない。
――彼女の涙に取り乱し、最終的にキスをした。
それが、ブリッジや逆立ちで振り払えるような出来事ではないのだ。
なかったことにできるわけもなく、諦めるようにもう一度布団の上に寝転がった。
過去をどれだけ悔いたところで、今の俺にできることはない。
俺が考えないといけないことは、これからのこと。
……主に、この後のことだった。
「……気まずい」
この後、俺は着替えて部屋を出る。
部屋を出ると、同居人と鉢合わせることになるだろう。
今日の朝食当番である彼女は既に活動しているようで、耳を澄ますと部屋の外から物音が聞こえてくる。
確実にリビングと台所を行き来しているものと察して、何故か気が重たくなった。
こんな日に限って、授業やバイトなどのちょっとしたすれ違いがない。
一緒の食卓でいただきますをし、彼女が用意してくれた朝食を食べ、何かしら言葉を交わしたりするのだろう。
同じタイミングで家を出て、そこでも会話を交わすはずだ。
……というより、同じ家に住んでいる時点で、もう逃げ場などないのだ。
彼女の涙を見て、動揺して、挙句の果てにキスをした。
その事実を胸に、彼女と向き合わねばならない。
昨日逃げた分が先延ばしになっただけの話なのだから。
「平常心……平常心……」
目を閉じて何回か深呼吸。
今日何を着ていくかとか、今日の晩御飯をどうするかとか、強烈すぎる彼女との思い出も今だけは俺の中から追い出して、ただただ無になる。
何も考えずにゆっくりと立ち上がり、何も考えずに目についた服へと着替え、無のまま部屋を出る。
「あ。おはよう、湯神くん」
「おはよう」
無なので、顔を見ても動揺はしない。
「もうすぐ終わるから待ってて」
「あぁ」
テーブルに準備したものを並べている同居人は、変わった様子もなく慌ただしくしていた。
とりあえず洗面所へ向かい、顔を洗う。
冷水でばしゃばしゃと豪快に洗い、邪念も気まずさもさっぱり洗い流してしまう。
タオルで拭き取れば、俺は新しい俺になる。
……さすがに昨日のことまで水に流すつもりはないが。
再びリビングに行くと、テーブルの傍にちょこんと座る同居人の姿があった。
トーストや目玉焼き、色とりどりの野菜が盛り付けられているサラダ。
テレビには朝の情報番組が映し出されていて、今日の天気予報が流れている。
何も言わずに傍に寄り、用意された場所へ座った。
勿論、それを彼女はしっかりと見届けていた。
今だって見つめあっている。
お互いにお互いを認識しているはずで、どちらかが声を発して、食べ始めてしまえばいいものだった。
だというのに、俺たちの時間は、停止したように動かない。
見つめあうのが照れくさくなったのか、彼女から目をそらした。
だけど、その先に何かがあるわけではない。
無言の時間が続き、俺も次第に冷静な自分を失っていく感覚に襲われる。
そう、俺から話しかければ済むはずだった。
朝食のお礼だとか、パン派かご飯派とか、目玉焼きに何をかけるとか……なんだってよかったはずだ。
無の中に流れ込んでくる、彼女の表情ひとつひとつが、俺の中に作り上げた虚像を壊していく。
「あぁ……無理」
声の出し方を忘れてしまったところに、彼女がうめき声をあげた。
両の手で顔を隠しているが、赤くなった耳が見えなくなった彼女の表情を見せてくれているようだ。
「……まだ恥ずかしい……」
何が? と尋ねずとも分かる。
分かるが、その問いに対する答えを持ち合わせていない。
しかし……しかしだ。
恋人同士となり、それなりの欲求が湧き上がるということはつまり。
「あの程度で恥ずかしがっていたら、この先やっていけなくなるぞ」
なんとか平然を装い、手のひらを合わせて「いただきます」と呟く。
焼きたてのトーストにかぶりつくと、サクッと心地よい音を立てた。
俺に倣って彼女も「いただきます」と言ってから食べ始める。
サラダをむしゃむしゃと食べる姿は、どこか小動物のようで愛らしい。
(愛らしいってなんだ……)
心の中で勝手に思って、勝手にツッコミを入れる。
恋というものを始めてからの俺は、新しい感情に振り回されっぱなしだ。
それを受け入れている自身にも驚くのだが……。
「あなたがキスをしたくないなら、もうしないよ」
絶対に嘘になる気休めが口からこぼれると、驚くほどの反射で、不安そうな表情を浮かべる彼女が見つめてきた。
はたから見ても、傷つけてしまったと分かるほどの様子に罪悪感が芽生える。
「したくないわけじゃないもん……」
不安げかと思いきや、今度は拗ねたような態度でトーストをかじっている。
彼女からも心地よい咀嚼音が聞こえ、次第に無言の空気が流れてきた。
(なんだこの可愛い生き物は……)
否定も訂正もできないまま、心の中だけで悶える俺は相当いかれている。
だけど仕方ない。仕方ないことなのだ。
ふくれっ面の彼女は、この世の何よりも可愛いと思ってしまう。
恥ずかしいことを考えているという自覚はあるはずなのに、その気持ちは止められない。
表に漏れ出ていないことだけが救いだった。
「わかったよ」
これ以上この話を広げるのも墓穴を掘りそうなので、一言だけ言葉を返し、ごまかすようにトーストをかじった。
きっといつか、互いに恥ずかしがることもなくなることだろう。
でも、それがいつになるかは想像もつかなくて……気が遠くなりそうだった。
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恋する100のお題 093:恋い焦がれること
(同人誌「同居にまつわるエトセトラ」設定のアフターストーリー/恋人同士/同居)