迷える仔羊部へようこそ!

01:終わりとはじまり


「終わった」

 人気の少ない廊下で窓の外を眺めながら、赤崎紫乃(あかさき しの)は呟いた。
 今日は一学期最後の登校日。明日からは学生たちが待ち望んでいた夏休みが始まる。紫乃にとっても楽しみではあったが、今はそういう気分にはなれずにいる。
「終わった」
 何度も何度も、この場所に辿り着くまで、紫乃は同じセリフをぶつぶつと呟いていた。
 そう、終わったのだ。
 一学期だけではない。いろいろと、だ。


***


 時間は少し前に遡る。
 紫乃には、付き合っているクラスメートがいた。
 名前は黒屋暁(くろや あかつき)。
 高校に入ってすぐ行われた合宿で意気投合し、告白され、あれよあれよと恋人同士になった。
 暁は一年生なのにあっという間にサッカー部のエースへとのし上がり、人としても周りからよく好かれていたと思われる。見た目はアイドルや芸能人に負けず劣らずの暁と紫乃は美男美女カップルとして祝福され、順調に交際を続けていくものだと信じていた。

 付き合い始めた頃は、『ずっと一緒だよ』だの『大好き』だの、毎日のように愛の言葉を言い合ったり、頻繁にデートをしていた。暇さえあればメールをし、遅くまで電話をしていたことだってあった。
 紫乃にとっては初めての彼氏。
 ぐいぐいと引っ張ってくる暁のペースにどんどん乗せられながら、『これが恋人同士というものなんだ』と思い込みつつ、恋人同士の日常に幸福感を抱いていた。


「は? 俺の言うこと聞けねーの?」
 しかし、幸せな日々というのは永遠ではなかったことを、紫乃は身を持って知ることになる。


 そう。暁の人格は他にも存在したのだ。
 甘く優しいマスクの下に潜むその顔を、紫乃は付き合って一ヵ月経つまで気づきもしなかった。
「え?」
 だから初めてそんなセリフを聞いた時には、開いた口が塞がらなかったのだ。信じられない気持ちが大きかったし、もしかしたらフラれるかもしれないという気持ちもあった。
 聞いたこともないような低く冷たい声色に、怯えている自分にショックを受ける。
「とにかく、毎日のメールは無しな。電話は俺からかけねーから、なんかあったらお前からかけてこい。デートとかは行きたいところがあったら言って」
「え、ちょっと待って……なんでそういうこと言うの? わたしのこと嫌いになった?」
 突然の豹変っぷりにさすがに頭が追いつかなかった紫乃は、動揺しながらそう尋ねる。
 すると、先程の声色から一転して、優しく諭すように暁は話した。
「別に嫌いになってそんなこと言ってるんじゃねーよ? ただ、ほどよく距離を取らないと、息苦しく感じちゃってさ。だから、な?」
 暁の言葉に紫乃は一瞬だけ考えて、素直に受け止めることにした。
 元々は暁がぐいぐい近寄って来ていたのに合わせていただけなのだが、過ぎったもやもやは、ぐっと堪えることにする。
 もやもやよりも、嫌われていないという安心感の方が大きかったからかもしれない。
「うん、分かったよ」
 紫乃は笑顔で返事をし、暁も先程の豹変っぷりが嘘のような優しく穏やかに『ありがとう』と答えた。


 だが、明らかに紫乃に対する暁の態度は悪化の道を究めていった。
 デートは二回に一回すっぽかされ、暁からの連絡はなくなった。紫乃から何度も連絡をしていたが、次第に返事もなくなってくる。
 ぞんざいに扱われている不満を告げると怒られ、じゃあ別れようと言えば『お前の気持ちはそんなもんだったのか』と何故か責められた。
 それでも繋がっていたのは、紫乃にとって暁が初めての恋人だったのと、好きという気持ちが強く、依存していたのが原因だったのかもしれない。

 すべてが終わったからこそ感じることだったが、もっと別れるタイミングはあっただろう。これは完全に紫乃の落ち度だ。
 時折与えられる甘い飴にすがって、期待を膨らませ過ぎた自分が悪いのだと思い込んだりもした。


 話は脱線したが、この後、紫乃にとって大変な事態に陥る大事件が発生する。


 それは七月の始め、期末テストが終わった頃辺りだと記憶している。
 クラスメートとの距離……特に女子から遠ざけられるようになったのだ。
 いつも一緒にお昼を食べていた子、席が近くてよく喋っていた子、用事があって話しかけられた時……何気ない瞬間に接する人たちの態度から、紫乃が『悪意を感じる』と気付くのに、そう時間はかからなかった。
 高い頻度で紫乃を盗み見てはひそひそと何かを話したり、悪意を込めた視線を感じていた。
 幸い夏休み前の短縮授業ということもあり、午前中で授業が終わることもあって大きな被害はなかったが……心当たりのない悪意を向けられる日々は、紫乃にとって大きなストレスだった。


 そして、今日。一学期の終業式が終わってすぐ。
 紫乃は暁に呼び出され、正式に別れを告げられた。
 勿論、呼び出された時にその覚悟はしていたが、まさか背後に新しい彼女らしき人物がいるとは思いもしなかった。さらに、予想を超えるセリフを浴びせられる。
「お前にこっぴどくフラれたってことになってるから。お前が浮気したのに逆切れしてフッたって。てなわけで、俺にあんまり話しかけるのはやめろよ。じゃーな」
 瞬間的に暁の言葉を理解するのは難しかった。だが、暁に洗脳された状態にあった紫乃でも、暁が言っていることがおかしいことだけは理解できる。
「ちょっと! それってあんたのことでしょ!?」
 そう叫んだ瞬間、最近クラスメートから冷ややかな視線を向けられていた真相が明らかになった気がした。有りもしない嘘を平気で言いふらし、同情されていたのだろう。暁はモテるし、クラスメートからの人望も厚い。勿論紫乃に人望がないわけでもないが、ああいった話は言ったもん勝ちだ。先に言いふらした暁の言葉を信じるのも無理はないと思った。
 しかし、声が届かなかったのか無視しているのか、暁は振り返ろうともしない。
 紫乃がどんなに叫んだって、名残惜しそうにもせず、遠くで待たせていた女の子の元へと歩き出し、付き合い始めの頃に見せていた笑顔を浮かべていた。
 二人が去る前に何故か女の子だけが紫乃のもとに駆け寄り、
「最低」
 とだけ告げると、今度こそ二人仲良く去っていく。
 紫乃はそれを黙って見守ることしかできなかった。


***


 という、ろくでもないことが紫乃の身に降りかかってからずっと、人気のない部活棟の廊下でため息をつき続けていた。
「終わった」
 壊れてしまった喋る人形みたいに、同じことしか言えなくなっている。
 それも仕方のないことだ。
 ろくでもない別れ方をし、見知らぬ女の子に『最低』と言われてしまった。他にも誤解をしている者はたくさんいることだろう。
 一学期の間、生きる楽しみと言うにはスケールが大きいかもしれないが、紫乃にとって暁の存在は大きく、想像以上にダメージを受けていた。
 ここまでひどいことをされたのだから、もっと恨んでもいいだろうし、怒ってもいいだろう。だが、恋の病にかかった紫乃にはそこに辿り着くまでの気力もなければ、それよりも自身を責めることばかりを考えていた。
 言ってしまえば、絶望しかなかったのだ。
「……もう、やだ……」
 弱音を口にすると、さっきまで大人しかった涙腺が暴走し始め、ぼろぼろと雫を零していく。
 ここは学校だからと言い聞かせても、一度溢れ出したものは止まる気配を一切見せない。
 ついには立っていることもままならず、その場にずるずるとしゃがみこみ、口に手を当てて声を押し殺しながら泣き出した。

 いつから、彼は変わってしまったのだろうか。
 自分の何がいけなかったのか。
 これから自分は、どうやって生きていけばいいのか。

 迷子になった幼子のような不安感を抱き、紫乃は絶望の沼に引き込まれていく。
「誰か……助けてよ……」
 このどうしようもなく襲い掛かる黒い感情から。
 絶望的なこの状況から。
 誰もいないのに、紫乃の口から無意識に言葉が漏れる。
「誰でもいいから……助けて……」
 床に手をつき、静かに悲痛な想いを叫ぶ。
 こんなことをしたところで、この学校に紫乃の味方なんていない……そう、心の奥底で分かっているはずなのに。


「助けてあげましょうか? 仔羊さん?」


 しかし、降りかかった一筋の光が、紫乃の思考を停止させた。
 よく見ると見慣れない上靴が視界にあり、ゆっくりとそれを上へと辿っていくと、穏やかに微笑むひとりの男子生徒が紫乃に話しかけていた。
「……え?」
 ぽかんとしながら泣いていることも忘れ、紫乃は男子生徒を見つめながら首を傾げる。
 その様子に何故か男子生徒も首を傾げ、
「え? 助けて欲しくてここにいるんでしょ?」
 と、わけのわからないことを口にした。
 彼が指をさした方を見ると、そこには『文芸部』と書かれた札が飾られている扉がある。
「必ずしもそれが救いになるかは分からないけど、手伝うことはできるよ? どうする?」
 そして男子生徒は、紫乃へ右手を差し伸べた。

 一体どういう状況なのか。
 そもそも、彼は何者なのか。文芸部が何だというのか。

 様々な疑問が湧き上がるが、何ひとつとして問いかけることができない。
 だけど気が付くと、紫乃は男子生徒の手を取っていた。それは彼に運命を預けるという意味でもあったが……その事実に、この時の紫乃は気付きもしなかった。
 この時の紫乃にはもう、誰かにすがることしかできない。
 いないと思っていた味方が目の前にいる。善か悪か、目的が何かもわからないまま。
 それでも紫乃は、手を取る以外の選択肢しか見えていなかった。
「お願いします……助けてください……」
 絞り出すように、紫乃は助けを乞う。
 すると、先程よりもにっこりと笑みを浮かべて、こう言ったのだ。


「ようこそ、俺たちの部活『迷える仔羊部』へ」


 そして彼は、紫乃を引っ張り上げた。
 それはまるで絶望の沼から引き上げられるような、そんな感覚だった。