高校生初の夏休みを終え、月が替わって九月が訪れた。
夏休みが始まった頃は絶望でいっぱいだった紫乃も、仔羊部のおかげでなんとか立ち直り、楽しい日々を送れたと思う。
学校へ行くのは少し怖いが、夏休み中に何度も救われたことを想いだし、登校拒否は回避することができた。
「……どうなってるかな」
小さく呟きながら、教室の様子を想像する。
暁の彼女がなんとかするなどと先日言っていたが、どのような魔法を使って元通りにするというのだろう。
紫乃には想像ができず、夏休み前の悪意に満ちた教室が頭の中に浮かんだ。
今日は始業式のみのため授業はないが、授業が本格的に始まってからが地獄だろう。
「やめよう」
これ以上考えたところで、憂鬱感が増すだけだ。
首を振って嫌な感情を振り払うと、紫乃は見えてきた学校へ淡々と向かうのであった。
だが、教室内は紫乃の予想外の展開が待ち受けていた。
「赤崎さん!!」
「大変だったんだねっ!」
「赤崎~~何も知らなくてごめんね!」
「えっ……?」
何人ものクラスメートに囲まれ、悪意とは逆の空気が紫乃を包み込んでいく。
ただ戸惑うことしかできない紫乃は、きょろきょろと周囲を見渡しながら、立ち尽くしていた。
「黒屋暁の悪行をみんな聞いたのっ!」
「四股とか最低!」
「しかも全部彼女が悪いって言いふらしてさ!」
女子生徒たちが怒りの事情説明をしたことで、紫乃も事情を把握することができた。
(なるほど……暁の悪い話で相殺されたのか……)
暁の話は聞く限りすべて事実であり、自業自得なのは明白だ。
嘘で悪く言われているわけではないのなら、紫乃の心も痛まない。
学校を憂鬱だとばかり考えていた紫乃にとって、自ら解決法を見出すことは難しく、それを実行することも難しい。
第三者の協力は思っていたよりもずっと強力だった。
夏休み前の空気が幻だったかのように、道場で満ちている。
しかし、紫乃の中では、夏休み前の出来事を幻で片付けることは不可能だった。
たとえクラスメートたちが謝ってきても、それを受け入れる器が今の紫乃には存在しない。まだ受け入れるのに時間が必要だった。
「そう、だったんだ。うん……大丈夫。声かけてくれてありがと」
だから、心にもない言葉を並べ、紫乃は返事をした。当たり障りのない反応で、苦笑を浮かべる。
紫乃を囲んでいたクラスメートたちはホッとした様子で、次第に人が減っていく。
(大丈夫って……なんだそりゃ)
ようやく自分の席に座りながら、小さくため息をつく。
あっさりと悩みが解決したことに、まだあまり実感が湧いていないせいかもしれない。
今も紫乃は腫物のように扱われ、前まで楽しく話していた”友達”と呼ばれるクラスメートすら近寄ってこないからかもしれない。
一度はみ出してしまえば、二度と元には戻れない。そんな気がしている。
(いつか、時間が解決してくれるのかな……)
たとえば、先の話だがクラス替えがあったり、それか行事がキッカケで打ち解けたりだとか。
元には戻らずとも、別の形で落ち着くのかもしれない。
ぼんやりと考え事をしながら、チャイムの音に耳を傾ける。
担任である桜庭が教室にやってきて、あっという間にホームルームが始まった。
「全員休まずよく来たな。この後は体育館で始業式があるから、全員移動して……」
落ち着いた口調で、桜庭がこれからの段取りについて説明している。
まだ二十代の桜庭はよくいじられているが、基本は真面目で、クラスメートもその雰囲気に引っ張られるように大人しく話を聞いていた。
高校に入学してから、この光景は変わらない。
(あの頃に戻れたらなぁ……)
まだ平和だった頃を思い出しつつ、仔羊部の部室の前で号泣したことも同時に脳裏を過ぎり、紫乃は思わず顔をしかめる。
(戻ったら……仔羊部のことまでなくなっちゃう……)
なんとも複雑な心境に、小さくため息をつく。
だが、そんなことで心が動かずとも、現実は何一つ変わらないから安心する。
仔羊部との関わりはそのままで、クラスメートとは若干気まずい現状で、失恋したことも、絶望したことも、きちんと過去に起こった出来事だ。その過去は、絶対に変わらない。
桜庭の話が終わると、クラスメートたちが次々と立ち上がり、体育館への移動を始めた。
紫乃も後を追い、周りと同じように移動する。
「おーい、赤崎」
すると、背後から突然声をかけられた。
振り返ると、別のクラスに所属する蒼真が片手をあげており、紫乃も倣って片手をあげる。
「なんだ、橙野か。やっほー」
「なんだとはなんだ。ぼっちそうだったから声かけたのに」
蒼真は不服そうな顔で返事をする。
「ごめんごめん。ありがとうございますー」
「んで? クラスの方はどうだった?」
それからすぐ、一番気まずいであろう話題について尋ねてきた。
躊躇いもなく尋ねてくるところは、蒼真だから許されるのだろう。紫乃も気に留めることなく答える。
「それがさー。暁の四股が広まって逆に同情された」
「はぁ?」
「それから謝れて、それだけ」
「それだけ」
簡潔に述べてみると、何故あれほど苦しんでいたか分からなくなる。
加害者側によって、これほど自身の立ち位置を揺るがされるものだとは、その立場になるまで知ることもなかった。そう思うと、実にバカバカしい。
「勝手なヤツらだな」
横目でちらりと蒼真を見ると、どこか苛立っているような表情を浮かべていた。声色も不機嫌な感じである。
「橙野が怒ってくれてホッとしたよ」
「は? そりゃそうだろ。急に手のひら返されてさ、たまったもんじゃねーっつーの」
「今のわたしにはまだそう言ってくれる人がクラスにいないから、嬉しいの」
「そうかよ」
もやもやしていた心は少しだけ落ち着き、紫乃はやっと心からの笑顔を浮かべることができた。
「ま、ちゃんと黒屋の彼女が働いたならそれでいいか。ひとまずは」
「すごい上からだね」
「そりゃそうだ。あいつが元凶の一人なんだからな」
容赦のない言い方も、紫乃が口にするには躊躇いがあるため、代弁してくれたことに心の中だけで感謝する。
「とりあえず、そのうち友達ができたらいいかなって思う。しばらくは疑心暗鬼になりそうだし」
「いいんじゃね? 焦らなくても。なんだったら琥珀さんでも目指してみれば? あの人も友達いないけど元気そうだし」
「確かに」
すっかり忘れていたが、琥珀には友達がいない。一人で生きていく極意を教えてもらうのもひとつの手かもしれない。
「じゃ、オレのクラスこっちだから」
「あ、うん。じゃあね」
「また部活でなー」
話しているうちに体育館に辿り着き、蒼真と紫乃はここで別れ、それぞれのクラスの列に並ぶ。紫乃は出席番号二番のため、始業式のような並び順は決まって前の方だった。
(ああ、そういえば部活……)
別れ際の蒼真のセリフで、紫乃は思い出した。
夏休み中、仔羊部への入部を決意したこと。
思い出しながら所定の位置へ辿り着くと、他の生徒たちと同様に座り込む。
(今日の放課後……入部届を出しに行こうかな)
せめて、誰が顧問を担当しているかくらい確認しておけばよかったと今更思い当たったが、後でまた蒼真をつかまえて確認すればよいと紫乃は小さく息を漏らす。
夏休み明け早々、考えることが多くて忙しい。
だが、それは迷える仔羊部という奇妙な部活のおかげだ。
きっと今の現状も、対処方法や考え方など、たくさんのことが解決できるかもしれない。
そう思えば、気持ちは自然と軽くなっていく。
(早く、みんなに会いたいな)
教師たちの話を聞きながら、紫乃は部員たちのことを思い出していた。