この世界には知らないことが多すぎる。
今は異世界にいるのだけれど、元の世界にいたところでそれは変わらない。
恋をすることも、失恋の痛みも、つい最近知ったことだ。
ミノリが今抱いている不思議な想いだって、名前さえ知らない。
だから、名前も知らないこの想いの対処法も知らないのは、当然のことだと思うのだ。
あれから何もなかったというような顔をして戻ってきたカラシンは、ドーナツには少々合わない(かもしれない)緑茶を持ってきた。
「ごめんね~。今これしかなくて」
「いえっ! わざわざすみません」
「熱いから気を付けてね」
そう言ってミノリの前に可愛らしいピンク色に染まったゆのみが置かれた。
以前ミノリがお茶を淹れた時にはなかったものだ。
不思議な気持ちでカラシンに視線をやると、すべてを見透かすようにはにかみながら教えてくれる。
「いや~……うちにはどうも可愛げのないものばかり揃っててね~。せっかくミノリちゃんが来てくれてるのに~と思うとついつい買っちゃって。迷惑だった?」
「そんな! むしろ嬉しいです……ありがとうございます」
「そりゃよかった」
知らぬ間にこんな風に気遣ってもらえていたなんて知らなかった。
ミノリはどんな色や形でも気にしないし、<第8商店街>に通っているのも自分の意志であり、優しくしてもらうためじゃない。
とはいえ、自分のために買ってもらったものは嬉しいことだ。
ぽかぽかと温かい気持ちに満たされながら、緑茶へ口を付ける。
カラシンの言う通り熱さは尋常ではなく、ちみちみとやけどをしないように気遣った。
「いや~ぼんやりしてたらすっごく熱くなっちゃった気がする。ごめんね」
「いえ。ありがとうございます」
どこまでも低姿勢だが、ミノリにとってはここまでいろいろ気遣ってもらえたうえにお茶まで……と、恐縮の一言に尽きた。
「あっちぃ!」
さっきまで余裕たっぷりの『おとな』に見えたカラシンが『こども』っぽく声をあげる。
それはミノリにとっての安心材料だった。
やっぱり、『おとな』と『こども』じゃ遠すぎる。
考え方や余裕もそうだが、本当にただ二人の間の壁が厚くて高くて、酷い距離を感じたのだ。
だから、シロエにも恋愛対象として見てもらえなかったのだ。
どんなに努力しても、アピールしても、年齢という大きな壁がミノリを苦しめる。
ミノリとシロエが並んでも、きっと微笑ましい兄妹のようにしか見えないだろう。
……恋人同士と言ったって、誰にも信じてもらえない自信がある。
早く『おとな』になりたいと背伸びをしても、もっと先にいるシロエには指先一本も届く気がしない。
だから悔しかった。
そんなどうすることもできない理由を盾に、ミノリは心のどこかで諦めていたのだ。
一番許せないのは失恋させたシロエでも、年の差という理不尽でもない。
ぜんぶぜんぶ、全力じゃなかった中途半端な自分自身。
自分は頑張っていたかもしれないけれど、多分きっとそれは、他の誰かには通用しないことなのかもしれない。
じゃあどれくらい頑張れば、ミノリの想いは年の差を超えて報われるのだろう。
考えれば考えるほど、次々と疑問が溢れていく。
この世界はずるいのだ。
みんな何かに一生懸命で、でも楽しそうにしている。キラキラと輝いている人が多いのだ。
そのせいで、すぐ憧れてしまう。惹かれてしまう。
今まで絶対にそんな人たちをそれ以上に見ることはなかった。
……なのに、変な錯覚がミノリを襲う。
ちょっとでもいいな、と思ってしまったら、それは恋愛感情ではないかと疑ってしまうのだ。
恋愛感情を覚えてしまったら、失恋して夢中だった想いが砕け散ったら……迷うようにいろんな人へ目が行ってしまう。
最終的にはそれが錯覚であると気付けるのだけど、その度に自分の愚かさを恥ずかしく思っていた。
……しかも、全員年上で。まるでまだ、シロエの面影を追いかけるように。
いろんな想いを抱きながら、何とか必死で乗り越えようとしている。
失恋の痛みは、消えたと思い込んでも完全には消えない。
シロエという人物は、ミノリにとって誰よりも尊敬出来て、誰よりも素敵な……ミノリにとって大きすぎる存在だった。
そう簡単に消えてくれない。
ほどよく冷めてきた緑茶をちみちみと、無言で飲みながら考える。
(あと何回、こんな気持ちを味わうのかなぁ……)
小さく溜息をつきつつ、窓の外を眺めながらこの先のことを考える。
フラれてしまってからのミノリは、普段通りにシロエと接してきた。
一瞬だけ見せたシロエのあからさまにホッとした表情が、ミノリの痛みを閉じ込めて、愚者を演じさせる。
きっと断る方だって痛みがあるのだ。
こちらが一方的に想いを寄せただけなのに、相手は傷つける役目を引き受けなければならない。
だから、シロエは何も悪くない。ミノリだって自分の意志で決めたことだ。
今もシロエを離れる気はなくて、これからもシロエに尽くすだろう。
シロエにとっての良い弟子として、傍にいるのだ。
しかし、この失恋の痛みから完全に解放されるのはいつだろう。
……というより、どうすれば楽になれるのだろう。
誰に問えば、その答えは返ってくるだろう。
誰も教えてくれなかった恋についての感情は、今もしっかりとミノリの中に根付いている。
ただの憧れや尊敬の気持ちで済ませてくれなかった感情は、一生消えない傷みたいな何かを数えきれないくらいに刻み込むようだった。
(こんな気持ち、知りたくなかった)
一種の理不尽さに、ミノリはまた一つ溜息をつく。
思わずカラシンに訊ねたいと思うほどに、頭の中は疑問だらけだ。
そんなことだから、『おとな』なんてミノリには早すぎる。
「ミノリちゃん」
「はい……ふぁっ!?」
不意に声をかけられ振り向いてみると、いきなり鼻をつままれてしまった。
驚きのあまり変な声を出してしまったことを恥ずかしく思う暇もなく、不思議な気持ちでカラシンを見つめる。
視界に映るのはどこか楽しそうな表情で、静寂に包まれた世界が動き始めたように思えた。
「百面相してたから、可愛くてついつい」
しかし、カラシンの返答にミノリは首を傾げる。
言葉の意味をすぐに理解できなかったせいだ。
可愛かったら、つい、鼻をつまむのか? 女の子に?
「カラシンさんって変わった趣味をおもちなんですね……」
ほんの少し顔を引きつらせ、思わずぽつりと呟く。
「えっ、何その解釈!? 変人みたいな反応やめて!?」
もっと何かすべき反応があったのかもしれないが、パンク寸前の脳内はそんな新情報を受け止めきれない。
ただカラシンと接していると、年の差を忘れる瞬間があったのは事実で、『おとな』にも『こども』らしさがあるのだと……それを少しだけ理解できたような気がした。