距離が縮んでいたことに気づいたのは、笑い合っている最中にふと目が合った瞬間。
その瞬間に、雰囲気が変わっていく。
世界がまた、色を変えていく。
あまりにも突然で、ミノリはすぐに状況を呑み込むことができなかった。
「もうさ、僕に話してごらんよ」
しびれを切らしたように話しかけるカラシンに、ミノリの中で動揺が襲い掛かった。
「え……」
さっきまで鼻をつまんでいた陽気さは、今ここで感じることはできない。
ほんの少しだけ笑みが消えた。少し前の幼さを残した振る舞いも、今ミノリの目に映るもののどこにもない。
今ミノリの目の前にいるのは、誰がどう見ても、間違いなく、『おとな』の男の人だ。
それが少し怖くて……どうしようもなく寂しかった。
不意打ちだらけだと、ミノリは心の中で思う。
せっかく我慢した涙が溢れたり、迷惑だと思われるかと思ったら温かく受け止めてくれたり。意地悪をしたと思えば、今はなんと言えばいいのだろうか。
鼻をつままれていたせいで、距離はぐんと縮まっている。
近くで見るカラシンの瞳はどこまでも吸い込まれそうで、自身を見失いそうで……怖かった。
さっきまで、どうして普通に接することができただろう。
混乱するミノリの頭の中は真っ白に染まっていく。
失恋の痛みよりも、唐突な世界の変化の方が影響力が大きかった。
「あの……カラシン、さん?」
絞り出すような声は酷くかすれていて、自分でも驚くほどだった。
何だかまるで、怯えてしまっているようだ。
ちょっとだけ怖いけれど、別に死ぬほど怖いわけじゃない。
だけど、そんな想いは心の中だけじゃ伝わることもなかった。
「ごめんね~。なんか、怖がらせちゃって」
またしても突然、明るい声が聞こえた。
ゆっくりと距離を取り始めるカラシンに、ミノリはぽかんとしたままだ。
完全に思考が追いついていないらしい。
「いや、やっぱ辛そうだからさ。てか、何となく察しちゃったし……。きっとギルドに戻ったら我慢しちゃうのかなって思ったら……少しくらい、ここで吐き出してけばいいのになって。僕じゃ、力不足かもしれないけど」
次の瞬間にはただの優しくて陽気で『おとな』なお兄さんで、ほんの少しの恐怖を抱かせたあの雰囲気なんて木端微塵に消え去っている。
「ミノリちゃんには……まだ早すぎるよ」
そしてカラシンの言葉が、ミノリの心に突き刺さる。
全部見透かすような態度……まるで、ミノリにはまだ『おとな』は早すぎると言わんばかりだ。
抱きたくない醜い感情がふつふつと湧いてくる感覚に身震いしそうになる。
「何が……早すぎるんですか」
ぽつりと、顔を俯けながら問いかけた。
その問いがきちんと伝わったかは、カラシンを見ていないミノリには把握できないところである。
こんなに感情的に行動するのは、いつ振りだろう。
きっと感情的になったことは異世界で何度もあったはずだが、それには明確な理由があって今はその理由が曖昧だ。
カラシンの言葉に腹が立ったからだろうか? それもなんだか、ただの八つ当たりな気がする。
元々はミノリが失恋して、その痛みをカラシンに知られてしまった……ミノリの落ち度だ。
下唇を噛み、両手の拳を再び強く握る。
「全部引き受けて、全部抱え込んで、責任に押し潰されそうで、人の顔を見て我慢してるところ」
冷たいような、温かいような。
どこか怒っているような、優しいような。
うまい言葉が見つからないミノリには、カラシンの考えていることが分からない。
そもそもカラシンという人間はこんな感じだっただろうか?
カラシンは何故、ここまでミノリのことを考えてくれるのだろうか。
ここまでするほど、ミノリはカラシンに何かしたことがない。
たとえカラシンが優しかったとしても、こんな風に誰かの心に寄り添うなんて……どんな相手でもできることじゃない。
「別に、無理やりやってるわけじゃないです……」
全部自分の意志で行っているわけであって、カラシンに心配されるほどじゃなかった。
「それを無意識でやるから心配なの」
でも、そんなミノリの意志は無視される。
「私なんかに全部背負いきれるわけないじゃないですか」
「だけど、無意識に何でもかんでもどうにかしようとしているでしょ」
雰囲気が険悪だ。
ミノリの冷静さも欠けてきたが、カラシンの方も少し剥きになっているように感じる。
どうにかしなければ。
そう思うのに、ミノリの言葉は止まらない。そして『おとな』であるカラシンの言葉も止まらなかった。
「まだ僕なんかよりも全然若いのに、どうしてそんなに我慢するの? 我慢すればするほど辛い想いをするのは君なのに」
それはおそらく、ミノリが言ってほしくないセリフだった。
正論であっても、それがミノリの幸せになる近道だったとしても。
これじゃあまるで、今までミノリがしてきたことが間違っていたと、無駄だったと、言われたような気がしたのだ。
そのセリフはミノリの感情のコントロールを奪うのには十分すぎて、理性を壊すにはたやすいものだった。
―――距離が縮まったと思っていたのに、『こども』だって、線を引かれた気がしたのだ。
「カラシンさんに……私の何が分かるって言うんですか」
だから、驚くほどひどいことも言えたのだ。
「何が分かるって言うんですか!」
叫び声が室内で響き渡り、カラシンの驚く顔が瞳に映っても、止めることができなかった。
「『こども』だから何でも分かるって言うんですか? 分かりやすいからですか? 私がどれだけ……」
「そんなこと分かるわけないじゃないか!」
だけどミノリはどこかで甘えていた。
ひどいことを言ったって、また優しく受け止めてもらえるんじゃないかと。
穏やかな顔で、ミノリの憤りも悩みも不安も疑問も……全部じゃないかもしれないけれど、受け止めてもらえるんじゃないかって。
カラシンはミノリよりもずっと『おとな』だ。
険悪になるまでずっと、どうしようもなく『こども』だったミノリを受け止めてくれていた。
なのに、カラシンは受け止めてくれなかった。
聞いたこともない声で反論し、見たこともない表情でミノリを睨むような視線を向ける。
そんなカラシンは『おとな』と言えるのだろうか? それとも『こども』なのだろうか?
目を大きく見開きながら、ミノリは呆然と立ち尽くすだけだ。
先程失った感情のコントロールが戻って来たのか、今は冷静さがミノリの脳内を支配している。
逆に、カラシンのコントロールは不能になったように思えた。
そして分かったことはもう一つ。
甘えていた自分は、言い逃れができないほど『こども』だった。
「僕はミノリちゃんに何も言われちゃいない。ミノリちゃんが辛そうにしていると思っただけだし、何を悩んでいるかは僕の妄想でしかない。でも、全部僕の妄想だ。僕はエスパーじゃない。『おとな』かもしれないけど、『おとな』だからって全部分かるわけじゃない。全部受け止めきれるわけじゃない」
カラシンの言葉に罪悪感が溢れていく。そして、分からなくなっていく。
ミノリは『おとな』になりたかった。
何でも受け止められて、どんなこともスムーズにこなせて、強く真っ直ぐな人間でありたかった。
すぐにカッとなって怒りだしたり、ワガママになったり、誰かに助けられてばっかりではいたくなかった。
どんな困難も乗り越えられるようになりたかった。
でも、そうじゃない、という。
「僕は年齢的に『おとな』だ。それだけたくさん経験して、辛い想いもたくさんした。感情を殺すことも、周りが求める仮面を被ることだって覚えた。覚えたけれど……ミノリちゃんには、まだそれは早すぎる。今我慢したって、いつかそれが爆発して……もっと辛くなるだけだよ。『こども』であることは何にも恥ずかしいことじゃない。それに僕は……『おとな』になりきれていない。そういう仮面を被っているだけだよ」
少しずつカラシンの表情が柔らかくなっていく。
険悪で冷たい空気は温かみを帯びていく。
優しさが流れ込み、穏やかさが降り積もる。
静かすぎるこの部屋は、まるでこの世界に二人だけ取り残されたと錯覚してしまう。
「それに、誰にでもこんなこと言ったりしないさ」
だから、次に発したカラシンの言葉も…………錯覚なのではないかと、反射的にそう思いたかった。
受け入れるには、今のミノリには準備が足りなかった。
「僕は好きな子を救いたいだけの……相手のこともちゃんと分かってやれない、ワガママで欲望に忠実な『おとな』の振りをした『こども』なんだよ」
ただ混乱の中で思い出したのは、カラシンの『こども』みたいな幼さ。
……ついさっきやり取りをしたはずの、年の差を忘れるようなやり取りだった。