ミノリという名前なのに、初恋は実らなかった。
どうして『初恋は実らない』ことを信じていなかったというと……自分の名前がミノリだったから。
心のどこかで、振り向いてくれることを期待していたから。
だからフラれた時、ちょっとだけ信じられなかった。
現実味もなかった。
ミノリという名前ですら、嫌になった瞬間もあったかもしれない。
でも今思えば、それも仕方のないことかもしれないと思う。
この世界には、約三万人のプレイヤーが飛ばされて来た。
三万人のうちの二人が同じ気持ちで恋人同士になるだなんて、とてつもない確率だ。
もしも現実世界だったら、それが何十億人のうちの二人に確率が跳ね上がる。
なのに、互いの想いが確実に実るなんて思い上がりだ。
ミノリに好きな人がいるように、相手にも他に好きな人がいるかもしれない。
それは当然のことなのに、ミノリはそんなことをちっとも考えたことがなかった。
だから、カラシンのことを勘違いしてしまった。
カラシンはミノリなんかよりも、もっと同年代の人に惹かれるものだと思っていた。
いつも優しくしてくれるのは、妹に接するような感覚なのだと思っていた。
どんな気持ちで受け止めてくれたのだろう。
失恋したミノリのことを、どんな想いで見ていただろう。
いろんなことに気づき始めたミノリは……カラシンのことをどう思っているのだろうか―――
見つめ合ってどれくらいの時間が経っただろうか?
二人きりの世界は時が止まったみたいで、ちゃんと呼吸ができているかさえも分かっていない。
今までどんな風に喋っていたのだろう。
さっきまでどんなふうに笑っていたっけ?
ぐるぐるとミノリは考えるけれど、カラシンの言葉だけでいっぱいいっぱいになっている。
「あーあ。言っちゃった」
どこかで諦めた表情を浮かべながら、カラシンはぽつりと呟くようにそう言う。
それはもう、冗談とか勘違いとかそういうものではないのだとミノリも理解せざるを得なかった。
ミノリがシロエに抱いた気持ちと同じもの……いや、それに近いもの、同類の感情をカラシンが抱いている。誰でもないミノリに。
何か言わなければ……でも、なんて?
まだ失恋したばかりのミノリには、前へ進む元気が回復できていない。
まだシロエの面影を追いかけたり、強がっていろんな感情を押し殺したりしている。
「えっと……」
なんとか絞り出した言葉の先も、思いつかない。続かない。
「ああ、いいよ。すぐに何か言おうとしなくても」
だけどカラシンはミノリのすべてを理解しているのか、経験があるからなのか……すぐに次の言葉を催促することはなかった。
何も言えないミノリの代わりに、カラシンが無言の空間を途切れさせてくれる。
「好きなんて、言うつもりもなかったのになぁ。だって、ミノリちゃんの好きな人のこと知ってたし……絶対に困らせるだろうなぁって。真面目で思いやりのあるミノリちゃんは、きっと真剣に僕が傷つかないことを考えてくれるんだろうなぁって」
静寂の中に、悔やむような声が聞こえる。
その言葉一つ一つがミノリを思いやる言葉に思えて、心がじんわりと温かくなっていくような感覚が押し寄せた。
カラシンは天井を仰ぎながら、話を続ける。
「いや……もしかしたら僕のことを想ってこそ、きっぱり断ってくれるかもしれない。……それが怖かったかもしれないね。あと年の差とかいろいろ」
カラシンにも臆病なところがあったのだ。
というか、『おとな』だからと我慢してきたこともあったのかもしれない。
我慢するのはきっと簡単だ。
でも、我慢した想いの行く末はどうなってしまうのだろう。
たとえば、カラシンの恋だとか。
たとえば、ミノリの失恋の痛みとか。
感情を殺した先で、ミノリは幸せになれるのだろうか。
失恋は恥ずべきことなのだろうか。
そもそも、何を我慢していたのだろうか。
泣いて、わめいて、誰かに愚痴ったりして……。
そうやって発散するから、痛みは緩和されていくのではないだろうか。
失恋の痛みが癒えたら……癒えなかったとしても、恋はまた容赦なくミノリのもとへやって来るのではないだろうか。
ミノリにはまだまだ分からないことがたくさんある。
それは経験値が足りないからだ。
この世界で敵と戦うにしても、レベルが必要になる。
たくさんの経験値を得て、レベルを上げて、少しずつレベルの高い敵に挑んでいく。
そんな積み重ねでいろんな知識も得て、誰かと仲良くなって、成長していくのではないだろうか。
きっとそういうのと同じだ。
今『こども』のミノリもいつかは『おとな』になる。
今すぐになれなくても、年を重ねる度に近づいていく。
その間に、たくさんのことを経験していくのだ。
その一つに、初恋があった。
そして……失恋もあったのだ。
「ありがとうございます、カラシンさん」
ようやく話すことができて、ミノリはホッとするような笑みを浮かべる。
「私、やっと前に進めるような気がします」
まだすべては分からないけれど、それもいつか分かる日が来るだろう。
ミノリはまだ中学生で、成人まではまだまだ時間があるのだ。
まだまだ狭い視野でしか見ることができない世界を、もっと広くする時間は十分にある。
「あれ……」
止まったはずの涙が、ぽろぽろと零れ落ちていく。
そこまで悲しいわけではなかったはずなのに、弱さを受け入れた瞬間、出し切れていなかった雫が流れ落ちていった。
「私、どうして……」
「いいんじゃない?」
「でも、」
「我慢しない方がいいよ」
「……そう、ですね」
そうして、やっと心から、ミノリは涙を流すことができた。
悔しかった想いも、後悔も、好きだった気持ちも。
涙にのせて、ミノリはどんどん流していく。
ずっと、好きだった。
意識する前から……もしかしたら初めて出会った時から、そうだったかもしれない。
自分が同い年だったらよかったのに。
『おとな』だったらよかったのに。
努力も覚悟も勇気も足りなくて、タイミングが悪くて、運も悪くて……。
ああ、初めての恋が終わる。
恋が終わったら、どうなってしまうだろう。
この想いが消えたら、何が残るのだろう……。
たくさんの想いがミノリの心の中を駆け巡る。
「ミノリちゃんは頑張ったよ。頑張ってたよ」
そして、カラシンの優しい声がミノリの想いに強く結びついてくれた。
もっと奥深くに隠れていたシロエへの好きの気持ちが引き出され、余計に涙がこぼれていく。
「……うっ……ひっく……うぇえ……」
ついには出さないようにと我慢していた声さえも溢れていった。
多分、今のミノリは我慢の仕方を忘れているように感じる。
ミノリを好きと言ってくれたカラシンの言葉だ。
その言葉はずしりと重たく、だけど優しく包み込むようだった。
どれくらい頑張ればいいのかと悩んでいたのに、カラシンが答えを教えてくれた。
想われることの喜びを教えてくれた。
ようやく、痛みと向き合って。
少しずつ離れることができそうな……そんな気がした。
***
存分に泣き喚いたミノリが泣き疲れた頃、やっとカラシンへ視線を送ることができた。
酷い顔だろうと分かっていても、救ってくれたカラシンへお礼は伝えないといけない。
それから、返事も……。
「カラシンさん、ありがとうございました」
声はいつしかはっきりしていて安心する。
穏やかな気持ちが言葉を滑らかに吐き出させ、悩んでいた自分が幻だったかのようにすんなりと話すことができた。
「私、まだカラシンさんにお返事はできません」
次の言葉だって、すぐに言うことができた。
カラシンは穏やかに笑みを浮かべながら、黙って聴いてくれている。
「私は今ここで答えを出せるほど、カラシンさんのこと……知りませんから。ですから、少しの間……待っていてくれませんか?」
まるで次の言葉を予測していたかのように、カラシンの表情には余裕さが見えていた。
「分かった」
返事もずっと前から決めていたことのようで、少しだけ拍子抜けしてしまう。
「僕のことを少しでも考えてくれる展開なんてないと思ってたから……それだけで十分嬉しいよ」
でも、次のカラシンの言葉で、ミノリは少しだけドキッとした。
改めてそんな風に言われると、ちょっと照れる。
いや……今までのやり取りを思い返すと、照れるような展開はたくさんあった。
「そ……そうですか」
意識すると鼓動が速くなり、ミノリの思考は正常でなくなる。
(私ってば……単純にもほどがあるよ……)
頭を抱えたくなる気持ちを抑えながら、ミノリは窓の外を眺める。
また一歩踏み出して、扉を開いたその先で……一体どんな世界が待っているだろうか。
ようやく踏み出したミノリは今、扉の前にいる。
その扉を開いて進んだ先で、ミノリはまた恋をするだろうか?
そして、その恋は……今度こそ実るだろうか?
残念なことに、未来というものはどんな力を使っても分からない。
三十秒先ならなんとかなっても、何分も何時間も何日もなんて無理だ。
だから少しずつ、進んでいくしかない。
この鼓動の速さも、高ぶる体温も、芽生え始めた何かの意味も……きっとミノリの知らない世界にある。
そうして、ミノリが望む素敵な『おとな』になっていくのだ。
とりあえずはカラシンへの答えを出すことが先決だ。
答えを導き出すことができれば、この鼓動の速さも、高ぶる体温も、芽生え始めた何かの意味も知ることができるだろう。
「じゃあ僕も、ミノリちゃんに振り向いてもらえるように頑張っちゃおうかな~」
「あ、え! え!?」
「今度デートでもしようか?」
「で、デートですか!?」
「そうだよ? 街中を手を繋いで歩いたり、カフェであーんってケーキ食べさせあったり……」
「それって恋人同士がすることじゃないですか……!」
「えぇ~。ん~じゃあ、とりあえずはおいしいものを食べに行こう。うん。それくらいならいいでしょ?」
「ご、ご飯くらいなら……」
「決定だね~」
楽しそうに笑うカラシンに釣られて、ミノリも笑顔を浮かべた。
まだ痛みは完全には消えていない。
でも、近い将来……消えてしまう予感がミノリを過ぎる。
そんな予感を抱かせたのは間違いなくカラシンだ。
だからなのか……この想いはちゃんと実るのではないかという予感も一緒に抱く。
「…………待っててくださいね」
ぽつりと呟くと、カラシンが不思議そうな目でミノリを見つめてきた。
「何か言った?」
「いいえ、なにも」
どうやら聞こえなかったらしく、少しだけホッとしながらにっこりと笑顔を浮かべた。
その笑顔を怪訝な表情でカラシンは見つめる。
そして、もう一度先程呟いた言葉を心の中で呟くのだった。
(私の想いが実るまで、もう少し待っててくださいね)