迷える仔羊部へようこそ!

07:かえりみち


 十四時から始まったアルバイトは、十七時に終了となった。
 勤務時間は基本三時間。仕事が忙しかったり、時間に余裕がある場合はもう少しやってもいいことになっている。
 ……といっても、それほど忙しい状況に陥ったことはないらしいが。
「んじゃ、今日もお疲れさま~」
 一人だけ立場が異なる空を除いた五人は帰り支度を始め、早々に仕事場を後にした。


 紫乃にとって初めてのアルバイト。勿論分からないことだらけだったが、これからも続けられそうだとホッとする場面もあった。
(せっかく誘ってもらったバイトだし、これからもがんばるぞっ)
 心の中で、紫乃は改めて決意を表する。
 そうこうしているうちに一同が乗り込んだエレベーターは一階に辿り着き、それぞれの帰路を歩いていくことになる。
「明日行く人~?」
 真白が尋ねると、ぱらぱらと手が挙がった。
 言いだしっぺの真白と同学年の蒼真、そして紫乃の三人。
「明日は家族で出かける用事があって」
 残念そうに事情を説明したのは若菜。
「すまない。明日は妹に一日付き合う予定なんだ」
 苦笑しながら続けて説明したのは琥珀だった。
「麗奈ちゃんだっけ? 元気?」
「ま、ぼちぼちです。相変わらず僕に懐きすぎてるから、そろそろどうにかしないとって思ってるんですけど……中三なのに、お風呂も一緒に入ろうとするし」
「それは……不健全……だね?」
「若菜さんっっ! 僕は阻止してますから!! 安心してくださいね!?」
 真白が尋ねたのをキッカケに、会話のキャッチボールは軽快に行われていく。琥珀の一途さを微笑ましく見守りつつ、ふと、静かになった真白に視線を移した。
 紫乃の瞳に映るのは、どこか寂しそうに話を聞いている真白の姿。率先して琥珀をからかうために話を振ったかと思いきや、意外にも大人しかった。

「なあ、赤崎。お前今日は真っ直ぐ帰んの?」
 真白を気にしているところに、突然蒼真が紫乃に話しかける。
「ん? うん。特に用事ないし」
「あ、そう。じゃ、今日は一緒に帰るか」
 だが、その内容に紫乃は驚く。
「えっ!?」
「なんだよ。お前と帰りの方向一緒なのオレくらいだから誘ってやったのに」
 蒼真はあからさまにため息をつくが、それでも紫乃の驚きは収まらない。そのうちにだんだんと気持ちが後ろ向きになっていくのが分かった。
「いや……二人でしょ? クラスメートとかに会ったら気まずいんですケド」
「はあ? オレたち別にそんな変な関係じゃねーだろ」
「でも……」
「あー分かった。オレと並んで歩くのが嫌なんだろ。じゃあ最初から言えよ」
「もー! そーじゃないの! どんだけデリカシーないの!?」
「面倒くせーよお前! もう分かった、意地でも一緒に帰るからな!」
 何故か猛烈に加速する蒼真と紫乃の言い合い。
「なんか急に盛り上がっちゃってるな~一年コンビは」
「なんだ。蒼真くんと紫乃さんってデキてたのか。真白くん涙拭きなよ」
「え? なんで俺ぼっち確定になってんだよ」
「ほら、僕と若菜さんは……ね?」
「勝手に私と黄山をくっつけるのはやめてもらっていいかな?」
 気が付くと他の面々も会話に混ざっており、一階に降り立ってからに十分近くもわいわい盛り上がっていた。
 話が何度も脱線するから、元々どんな話をしていたかすっかり分からなくなってしまう。


「じゃ、今度こそまたな~」
 ようやく話を切り上げ、一同は今度こそそれぞれの帰路を歩いていく。
 駅の方へ向かうのは、紫乃と蒼真。あと途中まで琥珀が同行する。
 真白と若菜は反対方面で、ここでお別れとなった。
「若菜さーん! 明後日! 明後日会いましょう!!」
「あーもう分かったから。みんなまたね~」
「おつかれっす」
「おつかれさまでしたー!」
 それぞれ一言ずつ交わすと、背を向けて歩き出した。
 琥珀だけはまだ名残惜しそうに若菜を見守っているが……。
「琥珀さーん! 行きますよー!」
 慣れた様子で琥珀の腕を引っ張る蒼真は、視線だけで紫乃に『行くぞ』と伝え、こくりと頷く。
 どうやら蒼真は、分かれ道に辿り着くまで琥珀を慰めているらしい。
「うー……やっぱ羨ましいよねぇ。真白くんが」
「送って行っちゃえばいいんじゃないですか? 強引に」
「あーそれ前にやろうとしてめちゃくちゃ怒られたんだよ、琥珀さん」
「ああ……」
 提案してみたものの、話を聞いているとなかなか手厳しい様子。しかし、若菜の気持ちを想うと、紫乃の心境は複雑だった。
(多分、今の時間が一番幸せなんだろうな……若菜さん)
 すっかり落ち込んでいる琥珀を見つめながら、今頃楽しく過ごしているであろう若菜を想像するのは結構胸が痛かった。
 三角関係ということは、誰か一人は辛い想いをする。
 先日の紫乃のような……ちょっとした絶望を味わうかもしれない。そう考えるだけで、気分はずーんと沈んでいく。

「紫乃さん」
 すると突然、目の前に蒼真と琥珀が立ち止まっていた。
 先程の女々しかった琥珀と、それを慰める蒼真という雰囲気ではない。
「大丈夫? 何か辛い?」
 琥珀が優しい言葉をかけてくるのが想定外で、紫乃の頭は混乱し始めていた。
「え……辛いって、琥珀さんの方じゃ……」
 想い人が別の男と一緒に歩いている。
 それを辛いと感じているのだと紫乃は思っていた。だが、琥珀はゆっくりと首を横に振り、話してくれる。
「蒼真くんから、ざっくり話は聴いてるよ。ほら、急に僕らと会ったからってさ、辛いことが消えるわけじゃないでしょ? だから、気になって。好きって気持ちはコントロールが難しいしさ」
 紫乃は優しく話しかける美男子に、意外にも共感していた。多分、この中で一番紫乃に寄り添えるのは琥珀かもしれないと思う。同じ恋愛に翻弄され、時には傷ついたりもしているだろう。
 何となくだが、琥珀の言葉には不思議な説得力があるような気がした。
「まあ、何かあったら気軽に話してみて。共感できることもあるかもしれないし」
「はい……」
 今の紫乃には、一言返事をするだけで精一杯だった。

「じゃ、僕はこっちだから。またね~」
 駅の近くまで歩いたところで、琥珀は一人別の道へと消えていく。
「よーし。オレたちもさっさと行くぞ~」
 空気を読んで黙り込んでいた蒼真がそう言うと、二人だけで帰り道の続きを歩き出した。
 すっかり並んで歩くのが自然なものになっており、紫乃も今更一人で帰る気になれずにいた。
「オレはさ、恋愛経験とかねーからよく分かんねーこともあるけどさ」
 少し歩いたところで、蒼真が話かけてくる。おそらく、さっきの琥珀の話の続きなのだろう。紫乃は黙って次の言葉を待つ。
「ま、同じ部だし。バイト仲間だし? お前のこと、助けてやるよ。立ち直るまで」
 普段の無神経さとは違う、優しい一面を見せる蒼真に、紫乃の冷たくなりかけた心がじんわりと温まり始めていた。
 もっとからかわれると思っていたせいで、不意を突かれたような感覚がして、気付くと紫乃の表情には笑みが浮かぶ。
「優しいじゃん」
「だろ? オレ結構優しいんだぜ? 敬え」
「じゃ、わたしにも助けさせてね」
「何を?」
「橙野のこと」
「分かった。じゃあ、早速……宿題を写させてくれ」
「そういう話ではない」
 どうやって帰り道を乗り切るか心配していた紫乃だったが、意外にも会話は盛り上がり、むしろその時間を楽しく感じていた。
 真白の次に出会ったことや同い年であることが関係しているのか……単純に馬が合うのか。理由は不明だが、とりあえず分かることがいくつかあった。


 この部の人間はみんな優しいこと。
 ちゃんと今の自分が現状を楽しめていること。
 もう少し、傷が癒えるのに時間がかかりそうなこと。

 だけどそれも、時間の問題のような気がしていた。
 何かキッカケさえあれば、どっしりと重たい荷物を背負っていたものが、どんどん軽くなって消えていきそうな、そんな予感を抱いていた。


(わたし、ちゃんと入部したい……この、迷える仔羊部に)

 薄らと抱いた願望は、はっきりと形になって紫乃の心に浮かび上がる。
 新学期になったらちゃんと入部届を出そう。そう思うのであった。




 ちなみに余談だが、蒼真は紫乃と同じマンションに住んでいたという。