迷える仔羊部へようこそ!

09:トラブル


「あー……つかれた」
 夕方まで休む間もなく夏休みの宿題と格闘を続けていた一同は、時計を見てしまった瞬間、ぷつんと集中力を切らしていた。
 真白が一番に机へ突っ伏しながら大きなため息をつく。
 時計はまもなく十八時を指すところだった。
「いや~私たち、頑張ればできるもんだね! 大分進んだよ~」
 勉強に自信がないと言っていた若菜は、嬉しそうに問題集を見せびらかし、
「オレ、今日はダメっす。もう限界。ムリ」
 蒼真にいたっては床にごろんと寝転がる始末。
「そろそろ帰らないと、妹に怒られてしまう」
 それから、先日妹の麗奈について語っていた琥珀が、渋い顔をしながらぼやいた。
(一人だけずれてるけど)
 心の中だけで苦笑しつつも、紫乃は宿題の進み具合に満足していた。家で進めるよりも格段に進められた。一人ならサボってしまうところだが、周りの目が気になって脱線できなかったからだろう。時折わからないところを教え合ったりしたこともあり、苦手だった英語の問題集も半分ほど片付いていた。
「んじゃ、今日はここまでってことで」
 真白が帰り支度を始めたのに倣い、他の面々も荷物をまとめていく。
「明日はここ休みだから、バイト来る組は明後日な~」
「はーい。りょーかいっす」
「若菜さんと会えないなんて辛過ぎる……」
「はいはい。一日二日でぐだぐだ言わないの」
 楽しげな会話を聞きながらも、職場を後にする。
 こんな体験ができるのは、ここ以外ではきっと見つからないだろう。そう思うと、紫乃は本当に運がよくて、恵まれているんだと改めて実感した。
(きっとこの先、何回だって思うんだろうな)


 いつも通り、紫乃・蒼真・琥珀の三人と、真白・若菜の二人がそれぞれの帰路につき始め、途中で琥珀と別れる。そこから同じマンションに住む紫乃と蒼真が歩き出すわけだが……。
「あ! やべっ!」
 突然、蒼真が大声を上げた。
 何事かとぎょっとした紫乃は、勢いよく蒼真へ視線を向ける。
「あー……スマホ忘れてきた……最悪だー……」
「えっ!? マジで?」
 ポケットや鞄の中を漁る蒼真だったが、目的のものは見つからないようで、表情からは落胆の色が見える。明日はバイトも休みであると真白が言っていたことを思い出すと、取りに帰る選択肢しかなさそうだった。
「あのさ、真白さんに電話してくんね? 職場のカギ持ってるの真白さんで、オレだけ行っても中に入れねーから」
「うん、ちょっと待って」
 言われたとおりに真白へ電話をし、事情を説明すると、すぐに職場へ戻ってくれると話がついた。
「真白さん大丈夫だって! 行ってきたら?」
「おー! マジ助かった! ありがとな赤崎!」
「ほら、早く行って」
「おう!」
 蒼真は来た道を引き返し、走って行く。その背中を見守りながら、紫乃は小さくため息をついた。

 本当はここでそのまま帰ればよかったのだが、なんとなく蒼真のスマホの行方が気になった紫乃は、近くにあったコンビニへと吸い込まれるように入っていく。
(なんか気になるし、そんなに時間かからないでしょ)
 ちょうど家のお菓子を切らせていたことを思い出し、お菓子コーナーを物色する。大好きなチョコレート菓子をひとつ手に取り、店内をぼんやりと見回しながら、他に買うものがないとキリをつけてレジで会計を済ませた。
 あとは蒼真をコンビニの前で待っていればいい。マンションへ辿り着くには必ずコンビニ前を通ることになるので、そのうち会えるだろう……紫乃は楽観的に、そう思っていた。


「あれ? 紫乃じゃん」
 しかし、不意に声をかけられ、穏やかになりつつあった日常が脆くも崩れ去る音が聞こえてくる。紫乃の心がカチコチに凍っていき、驚くほど身体が動かなくなった。
「元気だったか? 紫乃」
 随分と前に聞いた優しい声色。紫乃が大好きだったはずの声。それが今では、恐怖に侵食されていく。
 ゆっくりと振り返ると、そこにはかつての恋人である暁がいた。
「え、あ……うん」
 言葉がうまく出てこない。喉の奥に何か引っかかったような感覚が紫乃を襲い、うなずくだけで精一杯だった。
 紫乃と呼ぶかつて恋人だった男は、付き合った当初の、まだ優しかった表情で紫乃に微笑んでいる。別れた時に自身が発したセリフも忘れて、のこのこと紫乃に話しかけていた。それに強烈な違和感を抱く。
「えっと……話しかけるなって、言ってなかったっけ……?」
 なんとか絞り出したセリフに、暁は憂いを込めた表情で答えた。
「あの時は悪かったよ。その、新しい彼女にああ言えって焚きつけられて」
 薄っぺらい謝罪に、紫乃の思考は固まる。
 当時、ノリノリで本心を告げていた暁から、こんな言葉を聞くことになろうとは思ってもみなかったのだ。
「俺、あれから気づいたんだよ。やっぱ紫乃のことが好きだって。紫乃がいないとダメだって」
 そして、暁は躊躇いもなく甘い言葉を囁いた。悪魔の囁きという例えがぴったりとはまるそれを、さくっとあしらうことができたならどれだけよかっただろう。
 なのに紫乃は、情けないことに心がぐらぐらと揺れていた。
 まだ癒えきらない傷。忘れられない人。かつて愛した人から、復縁を迫られている。あれほど辛い目に遭わされてきたというのに、暁との美化された思い出が脳裏を過り、紫乃の心をかき乱していくのがわかる。
「こないだのヤツとはちゃんと別れた。俺、また紫乃とやり直したい」
 トドメを刺すかのように、暁は容赦なく迫っていく。


 このまま、この身を預けてもいいかもしれない……。
「わたし……」
「あれー? 誰かと思ったら黒屋クンじゃーん」


 悪魔の誘惑に乗っかってしまおうと思ったその瞬間、一人の男が乱入してきた。
 本来の紫乃の待ち人であり、先ほど忘れ物を取りに行っていた蒼真だ。
「橙野……」
 紫乃が蒼真の名を呼ぶと、表情だけで『お前何やってんだよ』と怒られている気持ちになる。そこでようやく、自身が危うい選択をしそうになったのだと気がついた。
「……あー……橙野クン? 久しぶり?」
 しかし、くよくよしている場合ではない。二人はどうやら知り合いらしく、どこかピリピリとした雰囲気へと変化していく。
「いやー、急にサッカー辞めちゃうから? ほんと張り合いなくて参っちゃうよねーマジで」
「あー悪いな。もうオレ引退したんだわ」
「何? 逃げたの? 勝ち逃げとかマジありえなくない?」
 先ほどまで穏やかな様子だった暁が、セリフからも伝わるくらいにイラついているのがわかった。というか怒っている。
 紫乃の存在など最初からなかったかのような状態へ陥り、何故か二人だけの世界が作り上げられていた。
「あー……黒屋とは中学時代、何かとサッカーで張り合ってたんだよ。お互いライバル視してたし。実は高校で一緒にサッカーやるのも楽しみにしてたんだぜ?」
 ぽかんとしていた紫乃を気遣って、蒼真が二人の関係について説明してくれる。
「そ。俺だって橙野クンと高校でサッカーするの楽しみにしてたし、中学最後の大会で勝負もつけたかった……なのに」
 その先の言葉は途切れ、ここで以前蒼真が語っていた出来事を思い出した。それは不運すぎる事故で、一人の大切な未来が途切れてしまった不幸。
 勝負をつけられなかったことに悔しそうに下唇を噛む暁と、悲しい話を思い出して思わず顔を伏せる紫乃。
「え、待てよ? 今そんな状況じゃねーよな? ん?」
 だが、そんな重たい空気を壊したのは、いつの間にか話題の中心に立たされた蒼真だった。
「お前さ、一度フッた相手にまた言い寄ってんの?」
 そうだ。かつての恋人に復縁を迫られ、立ち直るために決意したことのすべてがぐらぐらと揺れていたのだ。
 脱線していた面々はようやく元のレールに戻り、紫乃はこれからどうしよう……と脳内で大騒ぎする羽目になる。
「紫乃とのことなら、なおさら橙野クンに関係ないよね?」
「関係なくないから話しかけたんだろ?」
 しかし、二人の敵対している状況だけは変わりなく、相変わらず紫乃の入り込む隙間が見つからなかった。
「え? 何? 紫乃と付き合ってんの?」
「そーいうことにすれば諦めてくれるか?」
「いやいや、意味分かんない。何言ってんの?」
「お前が一番意味不明だから。今も女癖の悪さは男連中の中で有名だし……ていうか、お前にコテンパンにされた赤崎によくヨリを戻そうなんて言えるな?」
「ちょ……二人とも」
 すっかり口喧嘩に発展してしまった二人の間に割って入るが、そんな紫乃を鬼の形相で二人が迫る。
「紫乃。俺を選ぶのか? 橙野を選ぶのか?」
「どっちだ? 赤崎」
「えええ……」
 本来、暁と付き合うか付き合わないかという話だったはずなのに、すっかり話がこじれてしまっていた。かつてライバル視していた二人に火をつけてしまったようで、メラメラと熱く燃え上がっている。
 ……それと対照的に、紫乃の気持ちは落ち着いていた。冷静さを取り戻し、本来の自分を見つめ直す。
 夏休みに入って、紫乃自身が感じたこと、気づいたこと。経験したこと、受け入れてもらえたこと。
 きっとここでかつての恋人を選んでしまったなら、これから得られる楽しい日々を捨てなければならないだろう。こうして守ってくれている蒼真を裏切ることに繋がる。
 蒼真と暁、二人は真剣な表情で紫乃の答えを待っている。ここではっきりと告げるしかなさそうだった。大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。たったそれだけでリラックスでき、やっと本心を告げられそうな気がした。
「あの……ごめん。もう暁とは付き合えない。他に付き合ってる人がいるとかじゃなくて、暁は過去になっちゃって……また付き合いとか、考えられないから」
 半分くらいは強がりで、ちょっぴり口から出任せを言っている。
 本当は一番最初、声をかけられた時に突き放すべきだった。それができなかった自分が情けなくて、心が揺らいだ自分に嫌気がさして、泣いてしまいたくなる。
 だけど、やっと突き放せた。それは紫乃にとっての大きな一歩だった。
「だから、もうただのクラスメートってことで。ごめん」
 頭を下げ、紫乃はひとつの道を断ち切る。
「……あっそー」
 ため息交じりで、どこか呆れたような声色で暁がそう吐き捨てた。自分の思い通りに行かなかったことに苛立っているようにも見えて、以前紫乃が受けた傷が疼く。
「自惚れんなよ? 一人空きができたから声かけてやっただけだし」
「こ……こんな見事な負け犬の遠吠えを、オレは今初めて聞いたぞ……」
「うっせーよ橙野! 色恋でお前に負けたわけじゃねーから!」
「やめろ! 余計かわいそうに見えてくるから!」
「あぁ?」
 そこで蒼真も乱入し、またライバル二人が盛り上がる。何故か恐怖心が収まり、紫乃の傷は緩やかに落ち着いていった。
「あーもうめんどくせー。俺行くから、勝手に二人でよろしくやってろ」
 最後にそれだけ吐き捨てると、暁は早足で去って行く。
「バーカバーカ! ざまあ!」
 暁の背中にめがけて、蒼真は子どもみたいな悪口で送り出した。
 紫乃はもう何も言葉が出てこず、ただただ情けない自分を愚かに思う。そして、無意識に張り詰めていた緊張から解放され、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。もしも蒼真が現れなければどうなっていたか。考えるだけでもぞっとした。


「ありがと……橙野」
 今にも消え入りそうな震えた声で、紫乃は絞り出すように告げた。
 蒼真はひとつ息をつき、乱暴にタオルを差し出す。
「よかったな。オレに感謝しろよ」
「うん……うん……」
 紫乃は遠慮なくタオルを受け取ると、涙を拭き取った。涙と一緒に悪い気も流れ、浄化されていく。


 これでもう、前を向いて歩いて行ける。


 先走った確信を抱きながら、紫乃は新たな一歩を踏み出した。