迷える仔羊部へようこそ!

10:夏の予定と社長の登場


 八月に突入し、あっという間に中盤に近づきかけた頃。
 暁との因縁の関係を直接断ち切ることができた紫乃は、元気にアルバイトや宿題に励んでいた。
 特に勉強方面は、同学年で成績のいい蒼真の存在もあって、ますます力を入れている。
 高校生初めての夏休みを満喫……できているつもりだったが、紫乃にとってひとつだけ、物足りなさを感じていた。


 そう。遊び、だ。


 本来ならクラスの友達と遊ぶところだが、夏休み前に険悪な仲になってから連絡を取っていなかった。
(まあ……わたしの話も聞かずに噂を信じて悪意を向けてくる人たちを、今更友達とは呼べないかもだけど……)
 もしかしたら、『紫乃と仲良くしたらお前もいじめる』などと脅されているのかもしれない。しかしそれならば、学校外や携帯だけでやりとりをすれば済む話ではないだろうか。それがこれまで一度もないと言うことは……言葉にしなくても、その先はなんとなく想像がつく。
 だから変な期待などせず、自分が楽しめることを考えた方が有意義なのだと言い聞かせることにした。
(明日、バイトの時に遊んだりしないか聞いてみよっかな……)
 今の紫乃には仔羊部という存在がある。
 それが唯一の救いだった。


***


「次の金曜日! 暇な人ー?」
 翌日、紫乃が皆の予定を確認する前に、仔羊部部長である真白がメンバーにそう尋ねた。
 なお、今日は全員そろっており、仔羊部OBの空もいる。そしてその全員が手を挙げた。
「よし! じゃあ決まりだな!」
 暇=真白の予定に同意した、と勝手に判断され、空が思わず口を挟んだ。
「え、何かあるの?」
「おう! せっかくの夏休みだし、仔羊部で遊ぼうかと。あ、東雲はOB枠で参加していいぞ?」
「おおー! 真白さんっ! どこ行くんですかっ!?」
 若菜がテンション高めで行き先を尋ねる。
 すると、楽しそうに真白が答えた。


「海だ!」


 真白の一際大きな声に、一同は様々な反応を示した。
「海かー! 青柳にしてはいい提案ね!」
 と一番にはしゃいでいるのは空。
「それはいいっすね!! 久々に海で泳ぎまくりたい!!」
 意外にも乗り気なのは蒼真だった。
「あれ。足は大丈夫なの?」
「は? ああ、激しい運動は無理だけど、普通に楽しむ分には平気なんだよ。じゃなきゃ真白さんが海なんて選ぶかよ」
「選んだかもよ?」
「ちょ! 冗談ですよね!?」
 蒼真の足の怪我が気がかりだったが、紫乃が思っていたよりも回復はしているらしい。心配無用だったらしく、途中で会話に乱入した真白に元気な様子で突っかかる蒼真を見つめながら、紫乃はホッとため息をついた。
「若菜さんの水着姿が拝める神イベント……真白くんは神か」
 若菜に一途な琥珀は、真白を拝みながらも喜んでいる。
 一方、その若菜は……
「海かー……。あんまり泳げないし、インドアだから不安だなぁ」
 と、先ほどよりもテンションが低めだった。
「まあまあ。泳げなくても砂で遊んだり、貝拾ったり、なんかみんなで遊べるから大丈夫だ!」
 真白が宥めると、わかりやすい若菜はすぐに受け入れて、
「真白さんがそう言うなら!」
 と、あっさり説得されていた。
 そして紫乃も、乗り気なメンバーの一人だった。
「楽しみですっ!!」
「おお、すごい気合いだね」
 空が笑いながらそう言うと、紫乃は大きく頷く。
「皆さんと遊びたいと思ってたので!」
 これで夏の楽しみが増えた。それがとても嬉しくて、紫乃の心はすっかり浮かれモードである。

「今日はうちの社長先輩がみんなのお給料を持ってきてくれるし、いいタイミングね!」
「むしろそれを狙っていたのだ」
 空の言葉に、真白が含んだような笑みを浮かべ『計画通り』と呟く。
「社長先輩?」
 しかし、紫乃は給料よりも気になるワードに反応した。
「そっかぁ。紫乃ちゃんはまだ会ってなかったね」
「あの人、給料日しかまともに来ねーから、お金くれる人って認識になってました」
 若菜と蒼真の会話に、紫乃は少しだけ苦笑する。
「お金くれる人って……間違ってはないと思うけど」
「いや、マジだって。オレろくに喋ったことねーもん」
 海の話から社長の話に変わるが、一同から社長の話を聞いてもうまく想像がつかず、正体不明の印象を受けた。以前、空の大学の先輩であることは聞いていたため、全く謎の人物というわけでもなさそうではあるが……。


 その時だった。
 玄関から音がして、足音も近づいてくる。
「諸君! いつもご苦労!」
 廊下とリビングの間にある扉が勢いよく開け放たれ、現れた人物はどこか偉そうな態度で労う。黒髪と眼鏡、それに鋭い目つき。視線で人を殺せそうな雰囲気だ。
「噂をすればなんとやら」
 隣で若菜がひそひそと囁き、紫乃はあれが社長であると認識する。
「れもんせんぱーい。お給料あざっす!」
 社長と言うよりは大学の先輩という肩書きの方が身近に感じられている空は、親しげに話しかけながら社長へ手を差し出した。だが、男の顔はあからさまに嫌そうな表情を浮かべている。
「その名で呼んだ貴様に渡す金などない!」
「わーん! 冗談です社長!」
 ものすごい威圧感に、紫乃の身体に緊張が過る。
 すると、職場内のコミュニケーションツールとしてパソコンにインストールされているチャットで、突然声をかけられた。目の前に座る蒼真からだ。
『あの人、灰谷檸檬(はいたにれもん)って言う名前なんだけど、自分の名前をめちゃくちゃ嫌ってるから気をつけろ』
 その内容に納得して、蒼真と目を合わせた紫乃は軽く会釈をした。
「じゃあ一人ずつ取りに来い。東雲空」
「はーい」
 振込での支払いがメジャーになった時代を考えると、手渡しで給料がもらえるというのは珍しく感じる。
 学校の教師がテストの答案を返却するようなノリで灰谷が一人ずつ渡していき、ついに紫乃の番となった。
「お。お前が最近入ったヤツだな」
「はい。赤崎紫乃です。よろしくお願いします」
「一応、雇い主の灰谷だ。君が先日まとめてくれた萌ぴょんのテレビ出演まとめ、非常に助かった。萌ぴょんが出演する番組は欠かさずチェックしていたが、一番組録画予約を忘れていてな。君は命の恩人だ。今後もよろしく頼む」
「は……はい」
 早速仕事を褒められ、ここは喜んで給料を受け取る場面だったが、紫乃は内心複雑だった。
(萌ぴょん……)
 灰谷の好きなアイドルの名前であることは知っており、仕事中に情報をまとめていた時は不思議な気持ちだった。だが、あの威圧感で言われてしまうと、どんな顔をしていいのかわからない。

 すべての人間に給料を渡し終え、灰谷はくいっとずれかけた眼鏡を元に戻す。
「またよろしく頼むぞ、諸君」
 そして、あっという間に去ろうとする。その滞在時間、およそ十分ほどだった。
「あ! ちょっと待ってれもん先輩!」
「あぁ?」
「あ……社長」
 慌てて呼び止めた空は、灰谷に容赦のない目つきで睨まれ、あっさりおとなしくなった。フォローするように真白が続く。
「次の金曜日、みんなで海に行こうって話が出てるんですけど、社長さんもどうです?」
「海?」
 それから手に持っていた鞄から手帳を取り出し、手早く予定をチェックし始める。
「あぁ……すまない。その日はとある社長との食事会と、萌ぴょんのライブで予定が詰まっている」
「そうですか~」
「残念だ……社長殿と親睦を深めるチャンスが……」
 真白が残念そうなのはともかく、琥珀が一番残念そうなのが意外だった。
「すまないな。黄山くんには前から話をしてみたいと言われているのにな。また予定をつけておく」
「ありがとうございます!」
 これまでで一番謎のやりとりを行っているような気がしたが、学生で社長というのもあるし、いろいろ聞いてみたいこともあるのかもしれない。紫乃は一旦忘れることにする。

「まあ、若者同士で楽しんでこい。ただし、怪我のないよう気をつけるようにな」

 灰谷はそれだけ言い残し、今度こそ去って行った。
 玄関でカギが閉まる音を聞くと、一同がホッとため息をつく。
「はー……なんか緊張したー」
 若菜が脱力した勢いで机に突っ伏した。その瞬間、部屋の空気も緩む。
「琥珀さん、なんであんなに社長好きなんすか?」
 蒼真が怪訝な表情で尋ねる。
「カッコいいから!」
 すると、元気よく琥珀は答えた。
 シンプルで、だけど他の面々には共感を得られない様子だったが……。
「黄山、あんたの感性がわからないわ」
「ええっ!? 若菜さん!?」
「琥珀くんは面白いねぇ」
「空さん!? なんで煽るんです!?」
「琥珀のことはさておき、次の金曜はこの六人で海に行くぞー!」
「おー!」
「いや、ちょっと!? みんな!?」
 琥珀だけが戸惑う中、その場が丸く収まっていく。
(また今度、琥珀さんに詳細を聞いてみよう)
 今の空気で突っ込んだ話を聞けなくなってしまった紫乃は、心の中でそっと決意をする。


 でも一番楽しみな海のことで頭の中はいっぱいになり、待ち遠しく思うのであった。