迷える仔羊部へようこそ!

14:夏休みが終わる前に


 海へ行くというイベントを終え、アルバイトと宿題、それぞれの家の用事などであっという間に夏休みが終わろうとしていた。
 紫乃にとって高校生初めての夏休みはどん底からのスタートだったが、なんとか心は穏やかさを保っている。
 学校が始まった時にどうなるかが未知で、唯一の不安要素だったりするが……。
(大丈夫かな……考えても仕方ないことだけど)
 夏休み前の悪夢を思い出すと、今でも暗い気持ちに支配されていた。
 一緒にお昼を食べたり、放課後や休日に遊んでいたクラスメートから向けられる冷たい眼差しと、悪意に満ちた空気。話しかけても無視される傷の痛み。
 夏休みが終わったら都合よく全部リセットされて、以前のようにフレンドリーに接してくれる世界に戻っていたらいいのに……。
 そんな非現実的な妄想を脳内で展開する度、紫乃は大きくため息をつく。

 たとえ以前の世界に戻ったとしても、紫乃自身が以前のように接する自信はなかった。

 一度向けられた悪意を、簡単になかったことにできるほど人間できていない。何より、紫乃自身が拒否している。
 ……もう、元には戻れない。
 それを念頭に置いたうえで、これからの身の振り方を考えなくてはいけない。

 この問題は、失恋よりも、夏休みの宿題よりも、ずっとずっと紫乃を悩ませた。


***


 夏休み終了、五日前。
 アルバイトを終えた仔羊部一行は、珍しく全員そろって小料理屋に訪れていた。しかもあの、多忙な社長も同席で。
 ファミレスやカフェはよく足を運んでいたが、こんな高そうで洒落た店に来たことはなかなかない。家族で年に一回あるかないかくらいだ。
「今日は私のおごりだ。店は貸し切りだから、多少は騒いでも問題ない。が、未成年者の飲酒と器物破損は厳禁だ! いいな!」
「やったー! れもん先輩ありがとー!」
「下の名前で呼ぶことも禁止だ! 東雲!!」
 恒例になっている大学生組のやり取りを見つめながら、紫乃たちは笑う。
 社長の灰谷によると、親睦を深めるための会らしい。
 そしてこの店は灰谷の知人が営んでいる店で、売上貢献のため定期的に食事会を開いているとのことだった。
 曰く、「店主とは萌ぴょん仲間でな。ライブのチケ取り争奪戦では持ちつ持たれつの関係なのだ」だそうで。
 恩を返すためという、割と律儀な理由だった。

「では諸君、飲み物は持ったか?」
「はーーい!」
「いつもご苦労! 萌ぴょんに乾杯!」
「か……かんぱーい」
 オレンジジュースの入ったグラスを持った一同は、まさかの社長推しアイドルへの乾杯の音頭に戸惑いつつも、空気を読んでグラスをぶつけあう。
 その戸惑いというのも一瞬のことで、続々と運ばれてくる料理の数々にテンションを上げながら、一気に楽しい空気に包まれた。
「うっま! このポテトサラダうまい!」
「揚げ出し豆腐おいし~~」
「刺身がうまいぜ!!」
「サーモンサーモン!!」
「どんどん持ってきますから、たくさん食べてくださいね」
「はーい!」
「ありがとうございます!」
 もはやどのセリフが誰のものであるかを判別する暇もなく、何を食べてもおいしい料理の味と賑やかで楽しい空気で満たされていく。
 灰谷は店主とアイドルの話で盛り上がっているし、男チームはひたすら食べまくり、女チームは負けないように食べつつも夏休みを振り返りながら談笑していた。

「あっという間だったよね、夏休み」
「高校はすぐ終わっちゃうよねー。大学はもう少し休みかな」
「えっ! いいですね~」
「うらやましい!!」
「でも、今年は紫乃ちゃんが来てくれて、去年よりもっと楽しかったよね」
「ほんと! 私も嬉しい~~!」
 紫乃の話が飛び出すと、若菜は紫乃の腕に飛びついた。
「こちらこそ……みなさんのおかげで、すっごく楽しい夏になりました!」
 若菜のスキンシップにもすっかり慣れ、気にも留めずに紫乃は笑顔で答える。
 ここにいる仲間が、紫乃を助けた。
 それが現実で、確かなことだった。
「わたし、新学期になったら入部届を出します。文芸部の」
 だからこの流れで、ずっと心の中で決めていたことを報告した。
「おお!」
「マジか!」
 紫乃のセリフを聞いていた琥珀と真白が反応し、腕を掴んでいた若菜が悲鳴にも似た喜びの叫びをあげる。
「ほんとっ!? やったぁ~!!」
 こんな風に喜ばれると、紫乃も嬉しい気持ちで満たされる。
 まだここにいてもいいと言われているような気がして。
「失恋からは立ち直れましたけど、まだその……クラスメートとどう接すればいいかとか……悩んでて、その……」
 一応、残る理由について述べておく。
 単純にこの居心地のいい場所にいたいわけじゃない。まだ悩みは解決できていないし、恩だって返せていないのだ。だから正式に入部して、少しずつでも何かできればいいと思っていた。
 ……というような話を、とりとめもなく紫乃は話した。

「んじゃ、オレのやりたいこと探しに付き合ってもらうか」
 すかさず口を開いたのは蒼真だった。気を遣う様子もなく、だけど部に残っていい理由をくれる。それに、蒼真には一番助けられていた。
「うん! がんばる!」
 何ができるかなんて分からないのに、妙に声は弾む。
 蒼真も特に成果を期待していないのか、紫乃の元気な声に「おう!」と返事をするにとどまった。
「俺らも紫乃ちゃんの悩み、いくらでも聞くから!」
 次に声をかけたのは、部長である真白。
 頼もしいセリフに心が軽くなる……かと思いきや、まだ海に行った日のことが引っかかって、複雑な気持ちになる。
「はい、よろしくお願いします!」
 しかし、この場で蒸し返して険悪なムードになるのは避けたい。
 紫乃は当たり障りのない返事でお茶を濁した。

「はーい、みんな。メインディッシュは肉だよ肉! たくさんお食べなさーい」
 話の区切りが良くなったタイミングで、大量の肉料理が運ばれてきた。
 からあげやステーキ、ローストビーフが机に並ぶ。
「おいしそー!!」
「食べるぞー!」
 空と真白が声をあげると、一同は一斉に箸を伸ばした。
 会話も忘れ、夢中で食べ続ける。今だけは先ほどのフレンドリーな空気は消え、戦場と化していた。
「社長さんの支払いですし、おかわりはなんなりとお申し付けください」
 だが、天の声に少しだけ空気が緩む。
 癒される店主の優しさ(?)に一度は朗らかな雰囲気で食べ続けた。
「若者たちよ、たくさん食べて大きくなれ」
「れもん先輩もあんまり年変わらないでしょ? 年寄りくさいですよ」
「下の名前で呼ぶ東雲は今すぐ国へ帰れ」
「ひどーい。ここ祖国」
 大学生組の灰谷と空が緩やかに会話を始め、空は紫乃の隣から灰谷の隣へ移動していった。
 灰谷のイメージが給料を渡しに来た時の厳格な雰囲気しか印象がなかったせいか、今、空と話している灰谷はどこか楽しそうに見える。
(空さんと社長さんって、付き合ってるのかな……)
 そこまで考えて、紫乃は首を振った。
 そして、自身の単純な恋愛脳に嫌気がさす。
(すぐ恋愛に結びつけるの、よくないよね……)
 そう思いながら、ふと真白へ視線を移す。すると、大学生組を見つめながらもぐもぐと唐揚げを食べる姿が目に入った。
(え~! やっぱ真白さんって空さんのことっ!?)
 声を上げそうになったのを必死でこらえながら、先ほどの嫌気を思い出してため息をつく。
 和やかな雰囲気にあてられて、学習能力が空っぽになっているようだった。

「どうしたんだい? 紫乃さん。百面相して」
 すると、先ほど空が座っていた席に琥珀がやってきて、声をかけてきた。
 意外という印象が強いせいか、紫乃はひどく驚く。
「あれ、若菜さんの隣に行かないんですか?」
 それから質問に答えることも忘れて尋ねた。
「あぁ……最近気づいたんだ。僕は押しすぎて引かれてしまっているんだって。そこで一旦引くことにし、『あれ……最近あんまり黄山にかまってもらえてないな……あれ、もしかして私寂しい……?』と思ってもらえるように」
「妙な小芝居やめて、黄山」
「おお、早速成果が! 紫乃さんと話すことでヤキモチを妬いた若菜さんがいてもたってもいられず、話に入ってきて」
「妄想おつかれさまですー」
 いつの間にか普段の二年生コンビによるやり取りが繰り広げられ、間に挟まっていた紫乃はそっと先ほど琥珀が座っていた若菜の向かい側の席へ移動する。
 隣にはむしゃむしゃとステーキを食べている蒼真がいて、
「あの二人、相変わらずだな」
 という言葉にこくりと頷いた。
「でも、仲良しでいいよね」
「あれで仲いいのか?」
「楽しそうじゃん」
「一方通行に見えるけどな? オレには」
「橙野にはわかんないかなぁ……」
「あ? すぐ恋愛に結びつけようとすんな!」
「うっ……」
 さっき紫乃自身が考えていた悪い部分を思い出して、蒼真のするどい指摘に言葉が詰まる。
「あ、橙野は? そういうのないの?」
 このままこの話を続けていると自滅しそうだと、矛先を変えてみる。
 しかし、明らかに方向転換を誤ってしまったらしい。大きなため息をついた蒼真が、呆れた様子で答えた。
「ない。何もない。少なくとも、さっき『お前には恋愛なんてわかんないかぁ……』みたいな態度を取ってたお前に言うことは何もない」
「辛辣!」
 もはや起死回生の道はなさそうだった。何を言っても、自分の首を絞めるだけ。
 だけど、追い詰められているというのに、やり取りは楽しくて、紫乃は思わず噴き出した。
「あ! バカにしてんのか?」
「ちがうって!」
 楽しくて賑やかなこの空間が心地よくて、いつまでも続いてほしいと願ってしまう。
 ただ、それだけの話で。

 今だけは、新学期の憂鬱感を忘れられる気がした。