迷える仔羊部へようこそ!

15:社長と紫乃


 それから何度も席移動があり、交代で社長の灰谷と話す時間が与えられたりと、懇親会という名に相応しい時を過ごしていた。
「赤崎紫乃」
「は、はいっ」
 ついに紫乃は灰谷に呼ばれ、慌てて立ち上がり、隣の席に座る。
「まあ、あまりかしこまらないでいい。東雲ほど無礼に接されても困るが、普通にしていればいい」
「はあ……」
 そうは言われても、きりっとした威圧的な視線に慣れず、すっかり緊張に飲まれてしまった。
「どうだ? 今日はちゃんと食べたのか?」
 そんな紫乃を気遣ってか、灰谷は他愛ない話題で和ませようとする。
「はい、すっごくおいしいのでたくさん食べちゃいました」
「そうだろう? また連れてきてやるからな。今日は若者が好きそうなものばかり出してもらったが、季節に合わせた料理というのもなかなかでな」
(そんなに年離れてないはずなのに、発言がおじさんっぽい……)
 心の中で失礼(?)なことを思い浮かべながらも、意外と普通に会話ができている状況を不思議に思う。
 ぺらぺらとこの店の話をする灰谷は生き生きとしていて、厳格なイメージが少しずつ和らいでいく。

「ああ、話は変わるが、君も青柳が創った奇妙な部に入ったのかね」
 店から仔羊部の話に変わり、何故か紫乃は驚いた。
 こくりと頷きながら、灰谷の反応を待つ。
「私はそういう、自分が欲する物のために既存の物にとらわれず、新しいものを生み出す彼らに好感を持っている。私は全く関与していないし、自分のことで精一杯だから、今後も深入りするつもりはないけどな」
 そこで一息つくように、手元のオレンジジュースを飲み干す。その後も、話は続いた。
「だが、君たちが前を向いて努力しようとしている……いや、努力していることを思うと、できる範囲で手助けしたいと思ってな。東雲の依頼もあって、彼らに安らぎの場を提供しているわけだ」
 眼鏡をくいっとあげて、灰谷は紫乃に微笑みかける。
(社長が笑った……初めて見た……)
 驚きの勢いでドキッとした紫乃は、ぽかんと間の抜けた表情で灰谷を見つめる。
「おいおい、あまり熱い視線で見ないでくれたまえ」
 しかし、少し頬を染めた灰谷がそれを制した。
「あ……すみません」
「年頃の学生は特にすぐ勘違いするからな。無意識が気づくと痛みに変わってしまう可能性もある」
「うっ」
 失恋のことを思い出すと、灰谷の言葉はすっぽり当てはまるようで、図星のあまり声が漏れる。
 ごまかすようにジュースを飲み、天井を見つめた。
「あの……社長」
「ん? 何だ?」
 紫乃は少々強引に話を切り出し、このタイミングで相談事を持ち出した。
 内容は、学校のことだった。

「教室でひとりぼっちになって、周りが悪意で満ちていたとしても……生きていけるでしょうか?」

 かなり直球な質問になってしまったが、口にした言葉は取り消せない。
 紫乃の話を聞いた灰谷は、特段大きな驚きも見せず、『ふむ』と言いながら顎に手を添えた。
「なかなかヘビーな話だな。君みたいなエンジョイ勢でもそんな目に遭うものなのか」
「え……エンジョイ勢?」
「人生を謳歌している人間みたいなものの敬称さ。一部が言っているだけに過ぎないからそこは気にしなくていいが……まあ、人は見た目で判断つかぬ生き物だよな」
「はあ……」
 どのような反応をしていいのか分からず、紫乃は近くにあった唐揚げを口に放り込む。もぐもぐと咀嚼しながら、相談したことを少しだけ後悔していた。
 もし自分がそれほど親しくもない人間からヘビーな相談を持ち掛けられたら……まともに対応できるかどうかも怪しい。
 ちらりと隣に座る眼鏡の男に視線を送る。
 和やかな場の雰囲気のおかげで、以前感じた威圧的な空気や鋭い目つきが穏やかに見えた。
 おそらく、相談を持ち掛けられたことを怒っているようには見えない。……しかし、訪れた沈黙に緊張感が走る。

「だから……あまり熱い視線は送るなとあれほど……」
「えっ!? すみません!」

 だが、その緊張もぷつんと切れた。
「君は……その、萌ぴょんと目元が似ていると思うのだ。だから、その目で見つめられるとよくない」
「は……はあ……初めて言われました」
 全く関係のない話が始まり、勇気を振り絞って投げた相談の面影が見えない。
 やはりつかみどころのない人だと、紫乃は心の中で思った。

「頑張れば、人はどんな環境でも生きていけるとは思う」
 刹那、灰谷が語り始めた。
 あまりにも唐突だったため、相槌を打つ暇さえなかった。
「だが、その頑張りが永遠に続くとは限らない。人はやはり、一人では生きていくのが難しい。誰かしらに生かされている。親や会社や、君なら学校か。学校だって、二学期は行事が多い時期だろう。クラスで協力しましょうなんて言われ、関わる必要がある。学校の外で生きていこうにも、親の助けは必要だし、その先どうしていくかを、君自身でも考えないといけない。私としては、せっかく受験に合格して入学した学校には卒業まで頑張ってもらいたいが……」
 灰谷はほおづえをつきながら、紫乃をじっと見つめる。

「君は、教室で孤独に戦っていくのかい?」

 そして、ぽつりと問いかけた。
 背後には仔羊部のメンバーが楽しそうに騒いでいるが、その声さえも遠く感じるほど、二人の空気は静かになっていく。
「わたしは……」
 答えようとしたところで、何も返す言葉がないことに気づいた。
 そこまで深く考えなかった……考えようともしなかったのだと、ただそれだけのことに気づく。
「れもん先輩! 紫乃ちゃん! なになに? なんか空気重たくない? さては……れもん先輩、いじめてたんでしょ?」
「下の名前で呼ぶ東雲は早く国に帰らんか」
「えぇ~」
 困っていた紫乃を助けるかのように、空が間に割って入る。
 よく見る光景が戻ってきて、紫乃は心のどこかでホッとした。
 まさかあれほど真剣な回答が得られるとは思ってもみず、動揺していたのかもしれない。

(戦い、か)
 灰谷の問いかけを思い出しながら、密かに妄想を始めてみる。

 悪意に満ちた教室。
 ひとりぼっちの自分。
 味方のいない世界、そこでどれくらい頑張れるのか、想像できなかった。
 少なくとも、夏休み前の二週間ほどの悪意でさえ堪えられたか分からない。
 弾が尽きたら、体力が、気力がなくなってしまったら……いつかゲームオーバーが来てしまうかもしれない。
 新学期に入ったら、さらにエスカレートしているかもしれない。
 夏休み中に暁を完全に敵に回した紫乃は、元凶の暁によって更なる悪意を向けられるようになる可能性を察して怖くなる。
 それらを考慮すると、蒼真に助けられたことの善悪が分からなくなっていく。
(いや、橙野は何も悪くない。状況が悪くなったとしても、暁の本性さえバレれば、ちょっとくらいは味方が増える……はず……たぶん)
 首を振って、蒼真のことは脳裏から振り払った。
 こうして考えてみると、次に学校へ行くまでは展開が読めないと気づく。
 夏休み前と変わらないか、エスカレートしているのか。

「おい、大丈夫か?」
「紫乃ちゃん?」
 我に返ると、大学生組が紫乃を心配そうに見つめていた。
「だ……大丈夫です。ちょっと考え事をしてて」
 乾いた笑みを浮かべ、両手をぶんぶんと振り、なんでもないと釈明する。
 実際、今話せることが特に思い浮かばないということもあった。
 すると、灰谷は突然胸ポケットから名刺ケースを取り出すと、自身の名刺を紫乃に差し出した。
 あまりにも突飛な行動に紫乃も空も目を丸くする。
「幸い、君には味方がいる。何かあれば連絡してこい」
 それは、先ほどの紫乃との会話の続きだった。
「え? どういうこと?」
 空だけが蚊帳の外に追い出されながらも、紫乃は灰谷の名刺を受け取る。
 何故か心強いアイテムを手に入れた気分になり、紫乃の強張っていた心は少しずつ温かみを帯びていった。
「ありがとうございます、社長」
 そして笑顔になると、「やっぱり萌ぴょんの面影があるな……」と照れ隠しをするように灰谷はつぶやき、「キモいですよ、先輩」と空に注意されるのであった。